6 届けられた花束 届かなかった手のひら






 目は口ほどにものを言う。とは実に的を射た言い方である。だがやや誤りもある。
 目は口よりもものを言う。極めて正直に。
 口上で虚を並べ立てるのは容易だ。真実を音にしなければいいのだから。されど目に嘘を浮かべるのは天賦の才なしには、訓練でもって抑えなければならない。それも容易ではない。
 律されない目は明らかだ。光は色を帯びて他者にその胸を語ってしまう。
 例えば、たかぶって零れ落ちたものは物質と化した感情そのもの。どれほど鈍くてアホだろうとも、可視の心を見てなお諒せずにいられるものはない。
「いくら謝っても許してくださらないんです! 目も合わせてくださらないんです!」
 思考の奥の冷静なところで、バービエルはそんなことを改めて考えていた。
 ルナスはあとからあとから惜しげもなく涙をこぼして拭おうともしない。しゃくりあげてまぶたを閉じればまた新たに大粒が頬をすべり落ちてしたたる。
「私、そんなっ、そんなにご気分を害するようなこと、を、した覚えがっ、なくてっ、 不躾を承知でお尋ねしても、なんでもっ、なんでもないと、答えてくださらないんですっ!」
 クリーム色のテーブルには涙の小池。
 ルナスは初めから泣いていたわけではない。暗く、前に少し気にかかった翳りよりもずっと深い悲しみに沈んでいるようで、様子がおかしかったので今日は直接尋ねてみた。なにかあったの?  と。
 唇を噛んで、眉を歪めて、その瞳の揺らめきを抑えようとしたのも一瞬。ぼろっ、とひとつ零れてしまえば、あとは逆さにかえした栓なき瓶。
「私、私、もうどうしたらいいかわからなくて……!」 
「ルナス、ルナス。泣かないで。ほら」
 ハンカチを渡して促すが、このままではそぼ濡れるのも時間の問題。
 バービエルは手を伸ばして彼女の肩に触れ、なだめる。涙の勢いは一時より鎮まったがまだ止まるには到らず。
 ミカエルは、気性の激しい天使だ。とはいえ、理由もなしにルナスをかくも泣かせるような態度をとるわけもあるまい。順を追ってきちんと考えてみるように勧める。
 手探るように彼女は話し始めた。
 数日前、どこかしら外へ一日遊びに行き、帰るころはすでに少々よそよそしい態度だった。しかし決定的に避けられるようになったのは……。
 頭が痛くなった。
 成程、無理もない。謝られても気まずかろう……。
 だが――しかし――それを理解せぬルナスに説いてやれば、きっと慇懃に、丁寧に、自分の非を悔いながら彼に詫びるだろう……そして、事態がますますややこしくなる。
 ほとぼりが冷めるまで待つ他ない。
 二度と繰り返させぬために、きちんと別口で注意する必要があるが。
 仕方ないのですかし泣き止ませ、一通りの復習と新しいテキストを読ませ、障りない話をして帰らせた。その際、また目を潤ませていた。
「今のが――迷子の、アリス?」
 ルナスと入れ違いに入室してきたのはタルシシュ。生真面目に留めた白衣の襟にかかった髪を払い、身なりを整えながら。
「ええ。会ったことはなかったかしら?」
「いえ、一度だけ。いたく様子が変わりましたね。前は、もっと」
「そうね」苦笑する。「よく笑うようになったし、よく喋るようにもなったわ。感情の起伏も大きいし……ミカエル様にお預けして正解だったようね」
「社会適応は難しいと思っていましたが。正直な心持ち、私は貴女方がいくら彼女の世話をしても無駄なことではないかと思っていたのですよ。
 あのようであれば、いずれ天使として仕事につくこともできましょう。普通ならうち捨てられるものだに、ミカエル様に拾われて、貴女方に恵まれて、あの子は実に幸運でしたね」
 本当にね、と笑って同意しようとした時だった。
「どぉぉぉぉぉぉぅ――りぁッッ!!!」
 窓が吹き込んだ。四散したガラスを伴って飛び込んできたのは赤毛の長身――。
「っ〜〜〜〜シャル! どこを探させてもいないと思っていたら――あなたって子は――!」
「ストップシャラッププリーズプリーズジャスタモーーメンっ!!」
 不思議と切り傷ひとつない彼女は髪と同じ色の瞳を狼狽させながら、青い面で大慌てでバービエルを押しやり壁の通信装置を乱暴に手早く引っ張り出す。スイッチを入れる。
「エマージェンシー! エマージェンシー! どのくらいかって、ヘクトパスカルでいうと3000! アリススタッフは全員P-1093集合! 二分以内! 全速ダッシュ、スタート!
 ああああ大変だわ、大変なんですよバービエル様!」
「どうしたの?」
 聞いているのにシャルは応えず、大変だ、大変だとテキパキとテーブルを片付けて布巾を持ってきて拭く。いきなりバン! と拭いている卓を両手で叩き、
「大変なんですよ! ヘクトパスカルでいうと3000くらい!」
「だからなにが――」
「シャ――――――――ルッ!」
 勢いよくドアが開いて怒鳴り込まれる。たおやかな女顔の青年。ただし酷い形相の。
「なんであと一分いや二十秒が待てない!? 一昨日からこの時間まで徹夜で仕事しててやぁぁぁぁっとうち帰って寝ようってカード差す間際で僕に何の恨みがあってわけわからん放送で呼び出すか!?」
「じゃかましゃあ――――ッ!」
 あっという間に間合いを詰めてシャルの肩を力の限り揺さぶる彼の顎に、型も美しくアッパーカット。
「……私の用は、後にしたほうが、よいのでしょうね。バービエル様、いずれお時間を」
 タルシシュは、薄い目で肩をすくめ、バービエルに浅く礼をして退出していった。
「それで、なにがそんなに大変なのかしら?」
 尋ねる。やたら複雑な関節技を決めながら得意の電撃を喰らわせている (そういえば彼はシャルと喧嘩をして一度も勝ったことがない)シャルにではなく、先程派手に砕かれた窓から、真っ赤な顔で息を切らせて現れたアリエルに。
 アリエルは切れた呼吸を出来る限り落ち着けて非難がましそうに口を開いた後、バービエルの向こうの取っ組み合いを見て失望したように大きく息を吐いてから、言った。
「大変なんです、あっちに、 漏洩しまっているみたいで……!」


 やっぱり、裸を見られたのがまずかったのだろうか?
 バービエルは特に言及しなかったが、話のその部分で表情に変化がとれた。
 物質界でのことではないことは確かだ。天界に戻る前、最後に交わしたキスだって、ミカエルは返してさえくれた。
 バービエルの反応、あのときのミカエルの様子。きっと、絶対アレがまずかったのだ。
 他人に決して肌を晒してはならない。思い出せる記憶の初めのほうでまずシャルに徹底的にいいつけられた。忘れていたのではない。ないけれど。
 椅子の上で、体を丸める。膝に頭を垂れて、目の熱さを堪えた。
 潮に晒され砂の混じった長い髪を綺麗にするのは時間がかかった。冷えた体も充分温めなくてはならなかったし、浴室からでて、軽く全身を拭ってから女子の義務であるとアリエルに与えられた化粧水を顔に馴染ませ、それからしっかり水分を追い出すため髪をタオルでもんで。髪を濡らしたまま服を着るわけにはいかない。
 力をつかえば、うまくすれば即座、髪を乾かすこともできただろう。さりとて失敗すれば目も当てられない。焦げてしまっても切ればすぐ伸びるのだが、ではもともと苦労して洗わずともよろしいということになる。それはあまり感心しない。
 うちに、ノックを受けたのだ。早くしろと。
 先に入浴するよう言ってくれたのだが、彼だって同じように潮を流さねばならない。ついつい長風呂をしてしまったが、すでに浴室は空いている。 
 数秒の停止。のち、ひどく音を立てての閉扉。
 ……一切の着衣ない姿は、非常に彼を不快にさせるものであったらしい……。
 ミカエルは彼女をとてもとても遠ざけたがっている。
 かまうまいと思ったのだ。礼を失すとはいえ、彼はさほど作法にこだわらない。早く湯を勧める方が重要だと。
 まさか、ここまで彼の気分を損なうものだとは、思わなかったのだ。
 言いつけを守らなかったせいでミカエルを害し、遠ざけられてしまったなら、悔いても悔いても悔い足りない。
 どうしたらいいのだろう。許し乞う言葉も非埋める手立てもない。
 閉じた目蓋から熱さがあふれた。
 あなたのためになりたいのに。
(ミカエルさま)
 私を嫌わないで。
 この存在があなたの苦痛になる。笑ってしまう。そんなに悲しいことはない。


 ミカエルは自宅の屋根に座り込んでいた。
 日もそろそろ暮れゆく。
 彼の所有する敷地は広大だが多くが手入れを受けていない。放置されて気ままに生きている草々は青々と、また微風に生じるひだも茜の日に照らし出されてとても美しい。
 今のミカエルには慰めにもならないが。
 酷い気分だった。
 自己嫌悪と羞恥と罪悪感を混ぜて反吐にぶち込んだみたいな、すさまじい色で臭気を発して腐っている。
 悪魔を狩っても晴れない。冷水を頭から浴びても消えない。
 払っても払っても纏わりつく底のない泥。
 抑えても抑えても浮かび上がってくる水疱の記憶。
 磁器のような白い温度、蜜さながらに甘く溶ける感触。手に残る柔らかなからだ。懐かしさのする匂い。すべてを有する姿態の、映像。
 血が熱い。
 キスを、初めてした時は決していいモノだと思わなかった。
 ジブリールが、あの愚にもつかない音楽会の出席を断ったミカエルに対して、詳しくはもう覚えていないが――四大の天使として、派閥が、などと直接説得してきたとき。
 どうしたら口うるさい彼女を引き下がらせられるかと思案して思いついたのがそれだった。ラファエルが行うところを非難していたジブリールに、同じことはとても出来まいと。
 半分以上は冗談だった。タカを括っていたから言えたことでもある。
『いいわ』
 ジブリールは襟首を両手で掴んでひき、驚いていて抵抗する暇がなかったミカエルと条件どおり、たった一瞬だったが間違いなく、唇を、重ねた。
『あなたが言い出したことですもの、約束をたがえたりはしないわよね?』  
 悔しさと腹立ち以外、一体何を覚えればいいのか。
 今度のは、そうではなくて。
 なにか、つかむことのできない別なものが。
 衝動としか言い様のない、自らの口付けは思い出しても胸を掻き毟りたくなる。
 キスはまだいい。気にするほうがおかしいのだ。挨拶程度、唇を合わせるのは珍しくも奇異でもない。慣れていないから、もてあましているだけ。現にルシアは何事もなかったかのように平然としていたではないか。
「〜〜〜〜……っ」
 網膜に残る白の肌。
 子どもっぽく薄い胸に細い腰。あの柔らかさはどこから来るのかと訝しむほどにとぼしい肉付き、目立つ骨格。あだあだしさはなく官能的な魅力もなく、もちろん煽情するようなものもない。
 つまらない、躯であったのだ。
 なのに印象が強すぎて。
 止めようがなく脳裏に映る。そして頭の奥のほうで軽い飢餓感が疼く。それはやり場のない怒りにも似ていて。
 片手で足りるか足りぬかの回数だが、類する経験をしたことがある。から、わかる。
 だが、違うのだ。これは。
 ごまかしようなく自分が気づいている。
 女なんか、大っ嫌いだというのに。その弱さも、飾り立てては男たちの気を引こうとする堕落さや信用ならない香も。
 でも。
 ……見るたび肌が透けそうで。
 そのうえ彼女の紺青が、全てを見抜いた色で笑うから。
 直視など、どうしてできるだろう。
 そろそろ、また戻ってくる頃合だ。彼女は不安がっている。急な振る舞いの変わり方に。
 見たくない。聞きたくない。触れたくない。髪も匂いも声も肌もあの青い瞳も全部だ。
 緩慢に、顔を上げる。夕日は最高に傾ぎだし、空の反対側が少しずつ深くなっていく。
 近づいてくる黒い点。船だ。政府の印がうってある。
 何をしに来たのだろう。こんな時に。
  

 スタッフのメンバーは主だった五人、他。薄く関わっている者を全部含めたなら、二十人弱。ちなみに全員ボランティアである。呼び名は、風流好みのペリエルがこのメンバーを詩的に迷子――アリス<Xタッフ、と呼んだことからすっかりこの名前が定着している。
 近くにいたせいか怒りのあまり足が早んだのか、真っ先に飛び込んできた(そしてぼこぼこに殴られた)フィリジエルのあと、すぐに十名近くがP-1093に集まった。
 シャルがとうとう気絶したフィリジエルにジャイアントスイングをかけようとしたのを止めてから、集まった面々にアリエルから聞いたことを話す。細かいところはアリエル 、シャルらが折々に補足した。
「……そういうわけで、どういう手段をとってくるかはまだわからないわ。だから極力皆情報に気を配って。なるべくあっちの動向を見逃さないようにね」
 それぞれは複雑そうにうなずいた。
 ほとんどが出て行ってからバービエルとペリエル、シャル・アリエル・フィリジエルの三人組が詳しい対策を立てるために残った。
「たーくもー、政府の腐れバターどもにも参っちゃうわね。こういう角度で来たか。ステキだわ、それは考えなかった。クソ」
 コーヒーのカップを握りながらテーブルにへばりつくシャル。
「あんのミカエル狂の人畜無害なイカレポンチ、ほっときなさいよ」
 アリエルがクスクス笑いながら同意する。
「でもよく考えてるんじゃなあい?」
「ほんと、余計なところに頭回しやがってもー。暇があんなら下層の仮設住居設備もっとマシにしろっつの。
 バービエル様、どうしましょ、これから?」
「そうね。ミカエル様のところにいる限りは、下手に手出しできないでしょうからひとまず安心だと思うわ。どうでるにせよ、きっとあの方に交渉するには頭を悩ますでしょう。その間に、できるだけの手を打っておかなくてはね」
「あの」手鏡で映しながら痣を治していたフィリジエルが、すまなそうに言った。「すいません、話が見えないんですけど」
「あなたなに聞いていたのよ、フィル?」
 呆れたように、アリエル。
「えっと、だってさ、ルシアが危ないのはわかったよ。でもミカエル様の預かりになってる彼女を奪うなんて誰がどう考えても無理でしょ。できると思うなんて常識を疑っちゃうよ」
「……。アリりん、よろしくね」
 シャルが完全に突っ伏した。
「あ、ずるいわよシャル」
「いいかしら、フィリジエル」
 二人に代わってバービエルが応えた。
「はっきりした統率者がいないせいで、熾天使最高会が不安定な状態なのはわかるわね? そのせいで民衆がまとまらないの。不安が下のほうに行くにつれて顕著で……そうなると自然、生まれながらに尊い身分の方たちに上に立たれることが望まれるのよ」
 そう。大熾天使長メタトロンは行方知れず。最高司令官に就いたロシエルも死んだことが確認されている。
 暫定的に一番上に立って政治を行おうとしている者はいても、天界を惹きつける程の魅力ある御前天使はバービエルが知る限り、熾天使最高会には存在しない。
 誰にでも一番身近な存在である元素を統べる、四大天使たちへの期待が高まっているのだ。
 しかし、その四大天使も現在健在といえるのは火のミカエルのみ。水のジブリールが自我をとりもどすのは随分先のことだろうし、風のラファエルは、言うまでもなく。土のウリエルは度々会議のためなどにやってはくるがほとんどを星幽界 で過ごしている。
 それに、信じられないような事実、最高司令にはミカエルが多くから望まれているのだ。彼の名声は文句なしに、高い。日常の態度を知らなくても、一次大戦での活躍を知らない者はいない。三次大戦での恐怖が色濃く残っているこの時、皆強い者に庇護を頼みたいのだ。加えて、彼がその三次大戦の一番深いところに関わっていたとなればこれはごくごく当然の流れと言えよう。
 大衆は愚かだなぁ、とは情報を読んだ誰かのこぼした言である……。
 ミカエル自身はもちろん嫌がるだろうが、それ以上に困るのが、現熾天使最高会。彼らが第二のセヴォフタルタならんとするのに、トップがミカエルではきっぱりと不都合だ。
 となれば、目に見える形で推される前に、ミカエルを貶めなければならない。
「……だから?」
「だーッ! だから、スキャンダルよ、スキャンダル!」
 痺れを切らしてシャルが怒鳴った。
「至高天、かの偉大なるミカエル様が情婦飼ってたって噂流せば信用信頼畏怖尊敬はまっすぐガクンと急降下、綺麗にガタ落ちでしょうが!」
 アダム・カダモンの最後の祈り、残された言葉。愛を禁じた神もその禁を強要する独裁者もおらず、そして 〈世界の魂〉統主ラジエルなどが働きかけている今の世に愛を罰するものは、無い。
 が、それとこれとは話が異なる。永き時に培われた通念はそうそうに変わることはない。高きに座すべきものは清廉潔白であり、完全無欠であると純な天使たちは信じているもの。薄々真実に気づいていたとしても心のどこかでは信じたい気持ちがあるものだ。
 だからこそ、主人の行動がひどい形で外に洩れないようにするのは苦労したのだ……
 治ったはずの左胸が少し 、痛む。
「情婦って……無理があるでしょ……ルシア、あれだよ?」
「無理でもなんでも、世の口にはのぼらせちゃったもん勝ちなの! あとでいくら誤解だってわかったって一回下がった支持ってのは中々戻ったりしないの!」
「まあまあ、シャル」
 やんわりとアリエルが抑える。されどフィリジエルはまだ納得しないようで、
「それで、どういう展開になるのかな」
「うん。ドタマ開いて金魚の餌にしよう?」
「しゃーるーッ」
「だってこいついたら話進まないじゃないのよ! ペリエル様も黙って座ってないでなんとか言ってくださいよ!」
 部下の言い合いにさほど興味を示さずだんまりを決め込み、ほぼいないに等しかったペリエルはポットから二杯目の珈琲を注ぎ足すところで、芝居がかったようすで肩をすくめ (彼の優雅も筋金入りだ……瞳の色がこうまで美しい菫でなければ、こんなときはいっそ腹が立ったかもしれない)、よく使い込まれた深みのある声で言った。
「つまりね、フィリジエル。政府のお馬鹿さんたちはミカエル様の名声を落としたいんだ。そのために迷子のアリスを『実験材料にする』というのを口実に引渡しを要求する。 アリスは彼にとっては預かりものに過ぎぬはず。断られたら、それはアリスが彼の情婦だからじゃないかと噂を流すわけだよ」
「ああ、そうかぁ」
「これでいいかな? シャル?」
「ううう」
 シャルは呻く。
「……大体、どうして洩れたのかしら。口実さえなきゃルシアがなんであろうとミカエル様をどうこうするわけにはいかないのに」
「それがね、調べてみたら、資料室に普通に保管してあったの。ちょっと誰かが探ってみれば簡単に手に入ったのよ、あの子のカルテ」
「なにそれ?」
 アリエルの言葉にシャルが驚愕する。
「あたし、あの資料は処分するか機密室のほうへ入れておけって言ったわよ!? 誰よしまったのは!?」
 と、フィリジエルが思いついたように、
「シャル、都合の悪いことが起こるとすぐに隠蔽を考えるのは医療現場の汚だぐッ!?」
「てめぇかあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
 シャルはフィリジエルの頚を引っつかんだ。握り絞めてまるでカクテルを作るときそうするような激しいシェイク。アリエルは止めない。
「あの子に万が一のことがあったら腹切れお前! 腹切って詫びろ!」
「ぐッ……がッ……ジャっ……ぢょッ……」
「やめなさい、シャル」
「バービエル様!」
「やめなさい」
 渋々、離す。さすが、彼女の指は正確に頚動脈を仕留めていた。くっきりと親指の痕がついている。フィリジエルは咳き込んで半眼のアリエルに背をさすられる。
「別に、僕だって、悪気があったんじゃないんだよ。珍しい力だったろ? ルシアの面倒はみたくなくても、研究したいひとはいるかもだろ? うまく彼女が活用できるようになったら、研究次第では大戦で体の一部を失った人たちに腕や足を返してあげられるかもしれない。ラファエル様の手を煩わせずにだよ。すごいことだよ。
 そうなったらルシアはここでまっとうに働けるじゃないか」
 シャルはぴくん、と震え、揺らした瞳に喜怒哀楽をほぼ均等に入り混じらせた。
「……。あんたもいいこと考えてたわけね。いいわ。許す。ごめん頚絞めて」
「いつものことだよ……じゃあもう一ついい? さっきの話聞いてると、ルシアは単なる口実なんだろ? 万が一って何?」
「実験材料としても有効ってことね。口実とは別に、ルナスちゃんがさらわれる可能性は捨てきれないってこと」
「そっちはさ、あんまり心配しなくていいとは、思うんだけどね。……あたしがあの方のところに預けるのに賛成したのは、それも、考慮してだし」
「ああ……。100%ルシアの希望だからじゃ、なかったんだね」
「そりゃそうよ」
 皮肉げに笑った。
「でも万が一は考えて然るべきだわ」
「……おかしなことになったねぇ」
 ぽつん、と独り言のように、ペリエル。
「迷子のアリス。悪魔なんかじゃないことは、一目あの気を見れば判るけど、あの力……物質や生命体を分解して、それを『もう一度完璧に元に戻せる』……。不思議な力だ。できるならわたしだって 篤調べてみたいものだよ。もちろんアリスに負担をかけない程度でね」
 検査の間にたった一回だけルナスが見せた力。本人の意思で行うことは出来ないうえ、瞬く間のことで充分なデータをとれなかった力。ペリエルの言う生命体とは、無論近くにいた天使。そこにいるシャルを含める数名と、彼女の周り半径三十センチを残して 、五メートル内にあったものは完全に消え去った。ほぼ放心状態のルナスは 瞬きを数度繰り返して、首を傾げた。……幻だったかのように、時間が巻き戻ったかのように、全てが元に返った。
 消えた――あえて消された、と言いなおそうか――者たちは、特に実感はなかったらしい。急に自分たち以外が騒然としだしたと。念のため身体を調べたが異常はなし。
 結果的には何も起こらなかったのと同じだ。だが確かに彼女らはいったん消滅していたのだ。範疇外だったカメラが証明している。
 インプロパ・チャイルド、変異亜種の少数が見せる不可思議な力ではとも考えられた。
 だがそれよりも局内に薄気味悪いとの声が多数上がった。悪魔なのではないかと。天使名簿に名がないとすればそうであろうと。見つけられたのが境界ならばなお。
『変なこと言わないで。そんなわけないでしょ。ちゃんとシャルも皆も戻してくれたじゃない』
『そうそ。気にしちゃダメよ。ないなら戸籍くらいあたしが用意するわ』
『あの子が悪魔だったら、天使ってなんなのか疑問に思っちゃうよねぇ』
 妙に仲のいい三人組はあっさり言ってのけた。そもそも見るものが見れば明白なのだ。たとえたてる証がなかろうと。
 決定的に悪魔だ、と見做されなかったのは、幸いにかルナスが未通であったことにある (シャルはアリエルを含めた局内の女性を散々哀れっぽい視線で眺め回した挙句、鼻でため息をついていた。バービエルは彼女の意見に概ね同意だった)。『職場柄』、これには口を閉じねばならぬ女たちが多かったのだ。このことは本人には知らせていない。
 悪魔『かもしれない』不確定要素は、ミカエルに預けるのに役立った。一度でも妙な力を発現している以上、いま恐れていたことが起きたように、『白い部屋』などの政府側の機関に目をつけられた場合彼の傍ほど安全なところはない。
「はァあ。別にねー、ミカエル様の名声が失墜しよーと地に落ちよーとあたしゃ知ったこっちゃねーのよ。あの子のために備えたいんであって!」
 立場を利用させてもらっている以上、彼にルナスのことで迷惑をかけるわけにいかないのが、こうやって集まっている理由の一つだ。
「わざわざ判りきった見栄はらないの。どっちにしろあなたの可愛いるっちゃんが泣くことになるのよ?」
「……そーなのよ。あー、嫌んなるわ……」
 うんざりして首を縮める。それから、思い直したようにきりっと背筋を伸ばす。
「バービエル様、あたし、もとから叩きたいです」
「どういうこと?」
「『白い部屋』なんていらないですよ。むっかつくし。研究機関ならウチのとこで充分です。これを機に解体するよう仕向けたいんです。〈世界の魂〉にツテがあるんで、根回ししときますから」
「いいアイデアだ!」
 フィリジエルが喜んだ。
「あんなのいらないよ。捕まったことのある天使が年間何人も精神科に来てる。ひどいもんさ!」
「なら、メディアの方面の協力も必須ね。シャル、あなた情報局にも友人がいたわね? そっちも頼めるかしら?」
「げ。嫌ですよ、あいつは嫌いです! ラジエル君にはあたしが頼むから、他の――フィル、前にあいつ紹介したわよね」
「されたけど……シャルがやんなよ。僕そんなに親しいわけじゃないし」
 ひらひらと手を振って応じない。
「〜〜〜〜〜っ」
「ルナスちゃんのためなんだから、我慢なさいよ」
 苦笑気味に、アリエル。いじめだ、セクハラだ、とシャルはぼやいた。セクハラは少し違うのではないかとバービエルは思ったが黙っていた。
「それでは、これからのアリスの送迎は私が行こう。そのほうがいいね? バービエル」
「ええ」
 ペリエルの申し出に頷くと、アリエルが横から口を出す。
「あ、でもルナスちゃんの投薬とか……勉強はしばらく控えたほうがいいのではありません?」
「ていうか、投薬のほうはもうしなくていいわよ。たぶんいつのまにかヤメても気づかないでしょうし、あの方。埋めてあるのも近々はずしましょう」
「もしなにかあったときに、あれのせいで抵抗できなくなったら困るわね」
 バービエルに異論はない。もう形だけでかまわないだろう。他の者も反対らしき表情は浮かべていない。アリエルが指を折り、
「前に打った薬、切れるのいつかしら」
「今日は打っているはずだわ。まさかこんなことになるなんて思わなかったから」
「じゃあ一回呼ぶか行くかして中和剤入れたほうがいいかもしれませんね」
 フィリジエルは青い目下の擦りつつ、メモ帳を取り出してしかじか書き込む。
 担当を決め、ここにいないメンバーに頼むべきこと、通達することを纏める。
 うちに、ふとバービエルの脳裏にじわりとしたものが閃いた。
 もしも。
「バービエル様? 何か仰いました?」
「……いえ」
 いや、言うまい。杞憂だ……。
 されども予感なのか、不安なのか。
 胸に宿った重みはゆっくりと、渦を巻いて沈んでいった。


 いつも降ろしてもらう所より、今日は1、2キロ手前で降ろしてもらった。走りたかったから。全速力で。息が切れてものも言えなくなるほど精一杯。
 ああ、こんなに簡単なことだった。思えばいつだって私には出来たのに。何故そうしなかったのだろう? すべてが目の前にあり過ぎて気づかなかったのだ……!
  彼女は走った。仲間に教えてもらった、疾駆するのには最適のフォームで。足の運び、手の振り方、顎の引き具合、ある程度長く走り続けられる呼吸法、めいめいの筋肉へ入れるちょうどよい力加減。他の色々なことがそうであったように、頭で判っていても体にうつすのはどうもうまくいかなくて、笑い混じりに何度も何度も教えてもらってやっとできたのを、意識しなくてもちゃんと体が覚えるまで繰り返した走り方だ。
 体力が充分でないがためにそれほど遠くまでは走れない。でもいいのだ。かまわない。この体が悲鳴をあげるほどに走れるのならば距離など関係ない。限界まで速く走ればいい。
 あたりはもう薄暗くて、夜の帳が完全に下ろされるまであと数分というところで、足元が見えづらかったけれど転んだりはしない。決して転んだりはしない。
 まっすぐ走ってゆける。
 だって、邪魔するものなんてないもの。何が私を阻むでしょう? 誰が間にいるでしょう? こんなに伝えたいことばがあるのに!
 見えた。彼女の帰るところ。
 息が切れた。全身が火照って、薄闇でもわかるほど顔だって真っ赤だろう。肺が懸命に新鮮な息を交換し、心臓は体内を流れる血液が隅々まで行き渡るよう強く強く打つ。残念ながらこの胸の高鳴りとは関係がないけれど。
 明かりが見える。目に見える窓の灯火ではなくて。目には見えないほうの光が。手に取るように判る。疑念の入る隙間もないほどにはっきりと。
 叫びだしたくなる喜びを抑えるのに、やっぱり疾走は正解だった。
 でなければ無作法になってしまう。ことばなんて溢れかえってしまう!
 そうだ、私は……!
 扉の前で脚を止める。息をつく。体が重たい。頬が熱い。なのに驚くほど喉が冷たい。
 最後に大きく吸って、吐いて、ノブに手をかける。歩き出してしまえば逆に足も体も軽くなる。
「……?……」
 変だ。
 これと言って指し示せるものは無いのだが……変だ。空気が。あるいは、温度?
 来客だろうか。珍しいこともある。バービエル以外なら、初めてのことじゃなかろうか。外に船らしきものは見えなかったが、これは彼女が普段なら周りに配るべき気を一点に集じていたから気づかなかったのか。
 絨毯の上を歩く。見えないヴェールが絡んでいるようだ。重くはないのに、進みづらい。
 ああ、そんなことより。
 あのひとはどこだろう? 客を相手にしているのなら、用事はしばし待たねばならない。待つのは平気だ。時間はいずれ過ぎ行く。客はいつか帰る。その小さな間、彼を待つのに苦を感じるだろうか? 必ず来ると判っている時を待つのは決して辛くない。
 自室? いや、来客を迎えるための部屋のどこかから探そう。
「……いけない」
 わざと遠くで降ろしてもらうのではなかった。早く戻ってくるべきだった。客に茶を出すのは他でもなく自分の役目ではないか。主人にそんなことをさせてはいないだろうか? 来たばかりならいいけれど。
 歩を速める。
 段々とふたたび駆け足になるのは仕方ない。
 導かれるように、予め行くべきを知ったように足が向く。
 その先は。
「ミカエルさま?」
 戸を開ける。
 ミカエルはいた。予想に反して、他には誰もいなかった。
 空気が吸いづらい。肺が膨らまないのではない。鼻腔が、気道が、拒否している。
 警告めいたランプが、視界のどこでもないところでチカチカ点滅している。
(なにかしら。誰かが、やめろって言っている?)
 そんな馬鹿な。どうしてやめるべき?
 ミカエルは物憂げに壁に寄って立っていた。彼女を見る。ここ数日、顔すら向けようとしなかったのに。
「ミカエルさま!」
 駆ける。やはり視線はあわせようとしてくれないけれど、耳があいているならそれで充分。背を向けられていないならそれで充分だ。
 聞いて。聞いてください。
 舌先まで、わけのわからない、喚きに近い感情むき出しの声があがる。唇を閉じることで抑えつけ、伝えたいことが明らかに語るためにいったん唾を飲んで、呼吸をする。
 一瞬でそれをこなして支度を済ます。
 語るべきことばはひとつでいいのだ。
 彼女は顔を上げた。このひとを、他の誰が真似できよう? 世界中でいっとう美しい赤であろう髪も金の眼も頬を翔ぶ青龍も、当然、彼自身は嫌っているらしいその身長さえも! なにもかもが最上だ。
 そうよ、ミカエルさま。私はあなたの、その睫の一本一本さえも。
 腕を伸ばせば届きそうなくらい傍まで寄って、足を揃えた。するとミカエルが彼女に向き直って、一歩進む。
「ミカエルさま、私……!」

 目が見えなくなった。
 真っ黒に塗りつぶされた。
 疑問符の浮かぶ意識の中。
 とりあえず彼女は笑わなくっちゃ、と思った。


 
 

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