12 三千世界の掟を壊し、開けその手とぬくもりを






 

 吹雪の中にいる。
 手を伸ばした先が見えぬほどの雪が吹き荒ぶ中を歩いている。もうずっと、長いこと。
 着ているものは飾りもない白いワンピースだけ。肌を叩きつける、また前へ進む足元を覆う雪は冷たいよりも痛くて痛くてたまらなかった。魂の流れすら凍りつく寒さの中、ただ、歩いている。
 行かなければならないから。
 周囲は見回しても一面白、白、白。一メートル先も見えないほどに埋めつくす白。標もないし真っ直ぐ歩けているかどうかも定かでないが、方向なんてこの自分が間違えるはずがない。声の聞こえたほうへゆけばいい。
 そのために歩かなければならない。こんなところにいるわけにはいかない。寒さや、冷たさや、痛みなどその意志の前にはどうでもいいことだ。前へ進まなければならない。
 だって、ここにはあの人がいない。あの人の傍に少しでも近くに行かなければ。聞こえた声。あの人の声。声のしたほうへ行かなければ。
 腰までも埋れながら、手で雪を掻き分けて進む。歩くことを諦めてはいけない。それは自分の否定だ。自分が自分であるためには行かなければならない。自分が何者であるかも知らないのに、それだけははっきりわかっている。
 前へ。
 行かなければ。
 こんなところにただ黙って立ち止まっているわけにはいかない。
 その意志の下、ひたすらに進み続ける。
 不意に、足を雪にとられて広がる雪原に前のめりに転んだ。柔らかい雪はコンクリートよりも痛かった。
 でも。
 止まっている暇はない。右足を立てようして、バランスを崩し再び雪に沈む。何が起こったのかと足を見る。無かった。右の足の膝から下が無い。血は出ていない。その欠損部は傷口とも言い難かった。氷を割ったように、白く折れて無くなっている。辺りの雪を探ってみると、立ったままの右足を見つけた。掴んで引き寄せようとするが、右足はその場に凍てついて動かない。繋げようと片足で起き上がってなんとか断面部を合わせるが、凍った足はどうしても再び繋がることはなかった。諦める。
 足一本無くなってもまだ歩ける。進める。這ってでも止まるわけにはいかない。
 たとえ腕一本になったとしても、前へ。
 前へ。
 あの人のところへ。
 足が無くなった分、雪に体が沈み白が肌を引っ掻いてますます体温を奪う。奪われきったら永遠に瞑目することになる? 独りきり?
 薄く笑む。
 どうしてそんなことがあるでしょう?
 膝立ちで、手で行く先を邪魔する雪を払いのける。進む。確実に進む。
 ねえあなた。待っていて。大丈夫。ちゃんと行くから。あなたがどこにいようとも、ちゃんと見つけてそこへ行くから。あなたのいるところならどこへでも。 どんな無明の闇の中でも。こんな白に閉ざされた世界でも。たとえこの目が盲いても。信じて。きっと手を伸ばすから。
 大丈夫。私がいるよ。
 どんなに離れても私がいる。
 あなたのための私がいます。
 ねえあなた。かぼそくてもいいから。小さくてもかまわないから。もう一度私を呼んで。
 あなたが私を呼ぶ声なら聞こえるから。
 あなたの元に行きたいの。何もない私だけれど、
 生まれる前からずっと
 あなたを愛してる
 いまも愛してる
 永遠に愛し続けていきます
 願いでも 
 誓いでもなく
 ただ
 過去と
 現在と
 未来
 呼んで、私を
 そして聞いて。私の声を聞いて。
 愛してるって言わせて。
 
         *

 その日、天界中のメディアが一斉に最高会所属研究所『白い部屋』の消滅を伝えた。
 まず第一報がそれ。
 第二報で四大元素天使、炎のミカエル率いる能天使軍が文字通り施設ごと壊滅させたことが知れ渡る。
 国境警備隊の能天使が何故、どんな権限があって、何が理由で。
 憶測が飛び交う中、一つのメディアが白い部屋の行なっていた人権無視の非業の実験内情を細やかに解説し、実際に白い部屋で実験材料になり運よく解放された天使のインタビューを放送するなど、予め周到に用意していたとしか思えない材料を元にミカエルの行動を強く支持した。
「権力に惑わされてはならない! 弱き者、異端な者であるからと言って強き者によって虐げられ辱めを受けることを当然だと受け入れてはならない!
 先の宰相セヴォフタルタの非道な行いを、白い部屋で凄惨な生体実験の存在を我々は知っていたはずだ。しかし誰一人それに対して声をあげてこなかった! 熾天使最高会からセヴォフタルタが除かれ、かの裁判の折に四大天使の方々が我々に自分の心に従って生きることを教えてくれた。
 しかし我々は白い部屋を放置した。何故か? 他人のために、自分とは縁遠い異端者が惨い仕打ちを受けていることにわざわざ声を上げるのが面倒だったからだ! 大戦後の混乱のさなか、復興しようとしている我々個人個人に、そんな余力がなかったことも確かだ。
 だからこそ、今回のミカエル様の行動は全ての天使たちの声の代わりと言ってもいいのではないだろうか? この非人道的な白い部屋の存続を望む者があれば、その者こそ石もて追われるべき異端者ではないだろうか?」
 ――これに、〈世界の魂〉の統主ラジエルが追随する形で声を上げた。自身も異端の力を持つ者であり、白い部屋の実験材料であった過去を明かし、その体験に基づく内実を暴露する。屈辱的な実験を繰り返され、ほとんど自分の意思で動くことも出来ない中、亡き座天使長ザフィケルが白い部屋に監査に入った際、必死で、何十分もかけて「生きたい」と、たったその一言を訴えた時のことは決して忘れはしないと。
 今尚その実験に苦しむ天使があるのであれば誰かが解放してやらねばならなかった。
 研究員の死者を出しているためにラジエルは施設ごと壊すことに必ずしも同意しなかったが、白い部屋を解体した時、脳だけになりながら生かされている者の処遇を判断することは困難であっただろうから、施設ごと崩壊させることで名前と体ある天使には戻れない彼らに永遠の安息を与えてやれたのではないかと、一定の理解を示した。
 そして、メディアは一人の少女について報道する。
 白い部屋に連行された少女のことを。
 月色の髪に紺青の瞳を持った少女の画像は誰の目にも非常にいたいけで、かよわそうで、愛らしいものだった。
 この少女は元々記憶を失くし彷徨っていたところを保護され、力天使の元で治療と教育を受けていた。その最中に元素に関わると思しき異端な能力を示したため、元素天使であるミカエルが監視を兼ねて小間使いとして使っていたのを最高会が嗅ぎつけて研究のためにとミカエルに引き渡しを要求した。
 その際、ミカエルは最高会に「決して無体な方法での研究はしない」と約束させた。にも関わらず、最高会は約束を反故にして少女をモルモットとして扱った。
 メディアは花を愛でたり、唄を吟じたり、最高の笑顔を見せる少女の画像を流し、それから白い部屋から救出された直後の映像を映した。
 限界まで痩せ乾いたミイラになった少女の姿を。
 誰の目にも痛ましく憐れに映った。これが『白い部屋』。異能の力があるだけで罪無き少女を、研究と称してここまで徹底的に痛めつけることのできる研究所。
 なんてことを。
 このことを知ったミカエルは上級天使である自分との約束さえ守れず好き勝手に天使の体をいじくりまわす白い部屋を、とうとう義のために立ちあがり滅ぼしたのだとメディアは高らかに謳った。
 騒然としながらも、民衆にミカエルを謗る者はない。

          *

「あたし、あんたのこと絶対に許さない」
 差し向かいでしれっとストローをくわえてオレンジジュースを飲む男にシャルは言い渡す。体の包帯はだいぶ取れたが、まだ傷痕の赤みが残る肌は却って痛々しい。
 赤い目はドスの利いた光を灯している。
「あたしがあんだけ抹消しようとしたあの子のあんな姿を天界中に放映して生きて帰れると思うなよ? あ?」
「そうか、今日こそお前の褥に招いてくれるんだな! お前の家で共に余生を静かに送れるならあの紙とケーブルだらけの家には二度と帰らないと約束する」
「あぁ、お招きしてやるわ、私の掘った永遠の褥にね」
「ドスを利かせようとしてもお前の声は小鳥のように可愛らしい」
 バン!
 シャルが白く丸いテーブルを叩く。それでも彼女が立ち上がって彼の胸ぐらを掴みに行かないのは左隣に座っているフィリジエルが彼女の膝に片足を上げて載せているからだ。
 何事かと周囲の者が彼らを見るが、フィリジエルはお愛想を振りまいて気にしないでとゼスチャーする。
「こんなところで剣呑な声をあげないでよね、シャル」
 そこは天界最大の医療施設のラウンジ。講堂ほどの大きさがあって吹き抜けの高い天井、ドーム状のガラスからは日が差し込んでいる。幾つものテーブルやソファなどが置かれ、ジュースやお茶を提供するスタッフも常駐しているので、広くてもいつも賑わっている。
 施設内で働いている者の休憩場であり、あまり重要でない打ち合わせの場所であり、入院患者と見舞客の話す場所である。ここに険悪な雰囲気は似つかわしくない。
「レウンシールにあの映像を流したのはあんたよね、フィリジエル。あんたも許さないわ。始末するって言ったのに!」
 睨みつけるシャルに対して、フィルは周りにお愛想を振りまいた顔そのままに胸ポケットから手のひらサイズのケースを出して開ける。中にはアンプルと注射器。テーブルに置いてシャルのほうへ押す。
「許さなかったら何? 劇薬だ。注射すれば僕は死ぬ。君と喧嘩して僕は勝ったことがない。すぐ出来るよ。やってみろよ。レウンシールさんにでもいいよ」
 言ってもレウンシールは両手を後ろ頭で組んで椅子の前二本をぐらぐら浮かせている。彼はフィリジエルより付き合いが長い。結果は占うより確かにわかっているんだろう。
 コンパクト型のケースを向けられて、シャルはそれに手を伸ばし、アンプルに触れて、顔を歪めた。
「出来るわけないじゃない――」
「だろ? 君にそんなこと出来るなんて誰も思ってない。君がやっていることは子供が駄々をこねてるのと一緒だ。幼稚な感傷で人を振り回そうとするな」
 レウンシールが口笛とため息の間くらいの音を唇でたてて
「シャルの扱い方をよくわかってるね、お姉さん」
「あなたよりは多少短いでしょうが、伊達に同じ職場で長いこと付きあってるわけではありませんから。あと僕は男です。以前お会いしたときも言ったはずですが」
「シャルの扱い方をよくわかってるね、お兄さん」
 律儀に言い直した。
「だって、あんな姿天界中に放映されたら、るっちゃんこの先普通に暮らしていけなくなるじゃない。あんな姿になった子って思われるじゃない」
「心配要らないと思うけどな。民衆なんてすぐ忘れるよ。アフター顔なんて変わりすぎててわかりゃしない。研究所解放の旗印に十分な可愛さが存分に発揮されるような映像選んだし、いじって『いかにも』な編集もした。可愛いってだけの記号は却って記憶に残らないものさ。絶対年齢にはまだ届いてないみたいだしもうちょい成長しちゃえばわかりゃしないよ。お前のためにジャーナリストの俺が嘘をついてまでミカエル様があの子を救いに行ったことにしたのは恩に着てくれてもいいんじゃないか?」
「ミカエル様のための嘘はあたしのためじゃない」
「そのミカエル様のことが大好きなんだろ、あの子。じゃあ巡ってあの子のためなんだから余計に恩に着ろ。そして俺をお前のベッドに招待しろ」
「目覚めたあの子がミカエル様をそれでも愛してると思うの? あんたなんてうちにも入れたくない」
「絶対、これは絶対だと保証するけど、ルシアはミカエル様をひとかけらだって恨んじゃいないよ」
 フィリジエルは言い切る。
「シャルだってそう思うから怒ってるんだろう?」
 力を込めたシャルの左手がアンプルを握り壊す。しゅう、小さな煙をあげて、皮膚を灼く。
「シャル」
 短く叱責すると、もう片方の手で目元を覆った。
「なんで、なんで二人ともあの人がいいのよ。あたしはどうしたらいいの」
 既に腫れぼったかった目から涙がこぼれる。
 レウンシールがジュースから引き揚げたストローを歯に挟んで揺らす。
「応援してやりゃいいんじゃないのか? 自分を酷い目に遭わした男をまだ愛してるってんなら本物だ。自分の恨みなんて挟まずに協力してやれよ。それが友情ってもんだろ」
「間違った方向へ行くの引き止めるのだって友情よ。レウだって知ってるでしょ。シャリオはあの人のためになろうとして死んだのよ」
 残りをずーっと吸って氷だけ残ったコップにストローをプッと吹き戻す。
「その俺がミカエル様をそーんなには恨んでないことも教えてやろうか。アキ兄も同じだぞ。だからあの人の下で働いてる。シャリオだって軍人だ。戦争で死ぬなんて覚悟の上だったはずだ。それをなんでお前だけいつまでも引きずってるんだ」
「あたしだって! ルシア――ルルがあんな目に遭わされなければこんなに怒ったり泣いたりしなかったのよ! あの子は軍人でも何でもない、ミカエル様が大好きなだけで無力な子なのに……!」
「気の毒だが、俺は大してあの子のことを知らんからな。映像みたら想像以上にシャリオに似てるしひでぇことしやがるなぁとは思うけど、実質あの子あんな風にしたのは白い部屋の奴らだし」
「そうなるとわかっててルルを引き渡したなら片棒担いでるのと同じじゃない」
「あのな、言っとくけど、シャル」
 手を上にする。
「あの子は似ててもシャリオじゃない。シャリオが死んだのと、今回のはまったくの別件だ。二件区別せずに同時に哀しんでればそら哀しさも二倍だわな。
 もう一つ、お前は無垢なお嬢さんをミカエル様が一方的に酷い目に遭わせたとひたすら思い込んでいるようだが、さしものミカエル様だって意味も無く白い部屋に渡したりせんかったんじゃないか? それまでは仲良くやってたんだろう?」
「どういう意味よ」
「お嬢さんのほうにも落ち度があったんじゃないかってハナシ」
「ルルに落ち度なんて――」
 止まる。
 同じことに思い至ったはずだ。フィリジエルは腕を組んだ。
 二人も聞いている。あの日、ミカエルがルシアを渡した日、彼女が泣いていたこと。こんな名付け方をするのも不本意だがペリエルがそれらしい名前をつけないので――裸事件だ。ルシアが不用意にミカエルに裸を見せてしまい、避けられるようになったと。
 あの日だ。
 成り行きはともかくミカエルがそれでルシアを避けるようになったならそれはルシアを子供ではなく預かり『もの』でもなく女性として見たのだから、そこだけを切り取ればルシアにとって喜ばしいことなのではないかとフィリジエルは思っている。口には出さないが。
 彼は白い部屋ごとぶち壊して彼女を救い出した。助ける気になったなら、気が変わったとしか言えまい。気が変わったとしたら、気持ちに区切りがついたのだ。区切りがついたなら、もうあんなことはしないだろう。
 分析が当たっているのなら、落ち度とは呼べなくとも原因ではある。少し距離を置きたくなったとしたときになんともタイミング悪く最高会が来ただけ。
(あの人、恋愛ごとには疎そうだしなぁ)
 ラファエルの元を尋ねて来ては職場を破壊するあの破天荒な少年天使を思い浮かべる。自分のロングコートで枯れ枝の少女をすっぽり覆って抱えてきた彼は、無表情だったが今までよりずっと大人びていた。
 ――ラファエルの目覚めが、もう少し早ければこんな事態にはならなかった事件。
「ルルに、落ち度なんて、ないわよ」
 認めるシャルではない。落ち度とは呼べないのはフィリジエルも承知している。どうやってなだめたものか。
「シャル。結果から見ろ」
 灼け爛れる手を割れたアンプルから離しハンカチで拭ってやってから、テーブルにこぼれた液体を吸い取り、癒してやる。
「ルシア――ルルは生きて戻った。ミカエル様はちゃんと自分でケリをつけた。ラファエル様のお陰でルルは五体満足だ。何が不満なんだ」
「傷は治ったのに目覚めないじゃない! 生きてたって目が覚めなければ死んでるのと同じ――」
「ラファエル様の癒しを疑うのか」
 押し黙る。続ける。
「いずれ起きるさ。精神的な消耗まではラファエル様も手が出せない。ゆっくり時間をかけて癒えれば自然に目覚めるだろう」
「王子様連れてきてキスでもさせるのはどうだ? 眠り姫を起こすのは王子様のキスって相場が決まってるだろ」
 気楽そうにいうレウンシールに睚眥を向ける。
 余計なこと言わないでください。
 あっちも目線で言ってきた。
 これでいいんだよ。
 フィリジエルは目を閉じた。確かに、ミカエルにキスをさせたら目覚めるかもしれないと思ったので。愛の力などではなく――それも含みはするだろうが――元素の力だ。
 ルルは眠るのを怖がっていた。始めは寝かしつけるのに薬が必要だった。しかし、ミカエルの傍にいれば眠らなくても大丈夫なんだと聞いた。こういうのもなんだが益体もない嘘をつくほど頭が回る子ではないので、事実なのだろう。
『ミカエル様の傍にいれば、元素が補給されるの』
 笑顔。彼女は元素と仲がいい(この表現が一番適切だとフィリジエルは思う)。ミカエル様の傍にいれば元素が補給されると言うからには本当だ。
 フィリジエルは一つ仮説を立てている。ルルは果物などを成らせるのが得意で、火の力を使うのは下手だ。思い通りにならない。それは、炎と相性が悪いのではなく、炎の力が強すぎるために制御しきれないからではないだろうか。乗馬を嗜んでいても熟達した乗り手でなければ暴れ馬を御せないように。
 そう考えれば、ミカエルをあれほど慕っている理由にもなる。
 ならば炎の天使に口から直接元素を吹き込んで貰えれば目が覚める確率は高い。
 すっとぼけた発言をするレウンシールと彼を罵るシャルを見る。
(まず、シャルに知られないようにミカエル様を迎えるのが無理そうだなぁ)
 首を振ってぼきぼき鳴らしながらため息をつく。


「というわけで、ミカエル様がだめならラファエル様でもいいと思うので試しに吹き込んでみてくださいませんか?」
 ちょっとそこまで出かけないか? くらいの軽さでフィリジエルが言うのに、ラファエルは読んでいた書類をデスクに戻す。先だって話をしてからなんだかよく話しかけられるようになり、親しみでも持ったのかこの執務室にも気軽に出入りするようになった。
「というわけで、で上官に向かっていきなりどういう要求しているんだ」
「だから、ルルが目覚められないのは、肉体的損傷の後遺症や苦痛からの精神的逃避などではなくて、起きて活動するだけのエネルギーが体内にないからだと思うんですよ」
 上官に向かって、の部分は完全にシカトしてフィリジエルは喋った。あの子はルナス、ルシア、アリス、るっちゃん等めいめい好きなように呼ばれているが、今度はルルになったらしい。この呼び方は短くて気に入ったので、以後ラファエルもこれで行こうと思った。
「アストラル力の充填はしているだろう?」
「生きるのに必要なのはアストラル力がすべてではないじゃありませんか。充填しても起きないのなら、アストラル力でないものが欠けているわけです。
 彼女は眠るのが怖いと言っていました。『ミカエルさまのお傍にいればあまり眠らなくても元素が補給される』とも。ということはミカエル様のお傍にいることで得られるエネルギーが足りないのです。環境的に、ルルは白い部屋では眠らなかったでしょうし、もちろんミカエル様もいませんので、『それ』はすっからかんになったかと。
 だからその欠けているエネルギーを外から吹き込んでやれば起きるんじゃないでしょうか。ほんとうは、ミカエル様がそうして下さるのがよいのでしょうがあの方を呼ぶにはシャルが親猫になっていて無理そうですし。ここにはルルとの面会がフリーパスの元素天使ラファエル様がいます。ミカエル様でなくとも手近なところで試す価値があるのではないかと」
「手近って……」
 呆れると、失言に気がついたか軽く唇をつぼめて右に視線をずらす。
「失礼しました。他に上品な言い方が見当たらなかったので。
 単なる僕の思いつきによる提案なのでラファエル様がお嫌でしたら無理にとは願いません」
「……あの子にキスするだけならやぶさかじゃないけど、俺のキスで目覚めたらミカちゃんの面目丸潰れじゃない?」
「黙ってればわかりませんよ。ラファエル様が目覚めさせたなら少なくともシャルは納得するでしょう」
「なんでシャルを納得させるためにミカちゃんのひどい怒りを買うの承知で俺があの子にキスしなきゃならないんだ」
 ラファエルの机の前で手を広げる。
「ミカエル様がいらっしゃるのが一番だとは僕も思うんですよ。でもシャルどうこうの前にご本人が逢いに来ようとしないならどうしようもないです。逢いに来てさえくだされば僕らは全力で時間稼ぎするのに。
 ラファエル様がお嫌なのでしたら僕はそれでかまいません。確証があるわけでもなくルルは吹けば飛ぶような木っ端ですからね。ではそろそろ休憩が終わりそうなので職務に戻ります。お時間取らせてすみませんでした」
「待て」
「はい」
 聞き分けよくさっさと去ろうとする部下を咄嗟に呼び止めるが、何を言いたいのか呼び止めた瞬間に忘れてしまった。
 フィリジエルは背中を見せかけていたのを礼儀正しく向き直る。
 この天使の断言する直感は鋭い気がして、言われてみると試してみる価値はありそうに思えてくる。
「なんでしょうか」
「変なこと聞くようだけど」
「ええ、どうぞ」
「あの子、ミカちゃんとキスしたことあると思う?」
「あるでしょうね」
「即答か。裏付けを聞いてもいい?」
 何か講義をするように、思い出しつつするように指を立てて振って見せる。
「ルルにまったく興味がないとしたら、あんな発育途中でまだ胸も尻もない貧相なクソガキの裸を見ただけであの方が何を思うわけもありません。思うのなら、ルルを女性として見たということです。あの子は物知らずですが気立ては悪くありません。ずっと一緒にいて、見た目の年頃も釣り合ってるので情が湧いてもこれは別段不思議なことではないです。
 だったら、キスくらいしてるでしょう。四六時中傍にいて誰も咎めやしません。ましてルルはミカエル様のことが大好きです。なにかしらの機会に唇を捧げてもミカエル様は拒否しないでしょう」
「拒否しないっていうのは?」
「ルルはひたすらミカエル様を愛しています。意識しているのかどうかは計りかねますが、そんな彼女をミカエル様は気に入られていました。キス、すなわち最も根源的な愛情表現をされて腹を立てるならもっと早い段階で殺されています」
 きっぱり言い切られる。
「なるほどね」
 直感を分析して筋道だてることも得意らしい。昇格を考えてやってもいいかな、と思ったが、ペリエルが頼りにしている部下のようだから考慮に入れるだけにしておこう。
「じゃあ、俺がルルちゃんにキスしても、あの子のファーストキスを奪うことにはならないわけだ」
「ファーストでもセカンドでもまあミカエル様は聞けばお怒りになるでしょうね」
 表情一つ変えない。
「……お前、俺に何を求めてるんだ?」
「キスはしないまでも、できれば休憩中あの子の病室にいてやってくださいませんか。ミカエル様の時も、お側にいるだけでよかったようですから」
 つまるところ、本当の用件はそれだったのだろう。一度帰りかけて呼び止めさせるなど、高等技術を使ったものである。
「……ペリエルそっくりになってきたな」
「個性の強い上司の下にいるって怖いです」
 やれやれと手をあげる。
「で、もう一人の赤いのは大丈夫なの? 俺を自分の可愛い子の側にいさせて。危険には思わない?」
「もしラファエル様がルルにキスしても怒ることはないですよ」
「腐っても力天使か。一応、俺には忠誠誓ってくれてるってわけね」
「いえ、そうではなく」
「なんだ?」
「シャルはラファエル様が好きですから。愛するラファエル様がルルにキスして怒るはずないです」
「へ?」
 淡々と告げてくるのに、思わず間の抜けた声が出た。
「シャルが?」
「念のため先に断っておきますが、女性としてです。ご存知ありませんでした?」
「え……」
 シャルの姿が目の前をよぎる。背が高く、跳ねた短い赤毛。生来面倒そうな顔つき。凄惨な爪の痕、憔悴しきった瞳。そんな姿に似つかわしくない、森に萌える柔らかな新芽を摘み取る鳥のような声。
 まめで世話好きで、患者のカウンセリングをしながら一緒に苦しんであげてしまう性格も知っているが、そんな感情は微塵も見せたことはない。
「昔食事に誘ったことがあるけど、勢いよく断られたよ?」
「容貌や言動で誤解されがちですが、根は純情で貞淑なんですよ。敬愛以上の情を持つことなかれ=Bラファエル様のご意向がどうあれ、罪の中に自分の分まで上乗せしてしまうのは申し訳なかったんです。トラウマから『自分が』性的な目で見られるのも嫌なようです。これからも黙ったままですから知らないふりをしてあげてください」
「だったら聞かないでいるほうがよかったよ……」
 他人から、誘っても靡かなかった女からの思慕を聞かされても座りが悪い。今度彼女にあったときにどんな顔をすればいいものか。普通でいいのだろうが。どっちにしろ彼女に女としての用はない。
「口が滑りました。すみません。でも、始めにシャルがミカエル様のところへルルをやった理由の一つに、ミカエル様がラファエル様のご親友だからというのもあることは知っていて欲しいです。ルルは――おわかりになるかどうか――少なくとも僕らにとっては近くにいると妙に気楽になります。ミカエル様にとってもそうだったように見えました。
 本人がミカエル様を愛してると言うし、ミカエル様のためになることならラファエル様のためにもなる。諸々総合してあの子を送り出したんです。
 面倒なのは、そこからあのような事態になって、ラファエル様が目覚められてからルルはこっちにいて、ミカエル様にご返却する理由が一つも無くなってしまったことですね」
「本人の意思は?」
「それを通してやったらルルは死にかけた。そのことに関してシャルは二度と耳を貸しません。本人の要望が必ずしも本人のためになるとは限りませんから」
「そうか……面倒なことになってるなー……」
「まあ、僕は僕でそんなシャルが好きですから最後まで付きあいますけどね」
 さらりと言うのにまた驚く。フィリジエルは微笑んだ。
「どうかしましたか?」
「いや……またなんで?」
「他人のためにあそこまで必死になれて、報われるつもりもなくラファエル様を好きでいるシャルだから僕は好きなんです。だから彼女のためのハッピーエンドに続く鍵を探す手伝いはします。彼女が取りこぼしたものなら僕が拾う。僕も報われようとは思ってないんですよ」
 そしていたずらっぽい笑み。これで性別が男でなければ適当な美辞麗句でも贈ってみたかもしれない。しかし同じ男だからこそこんな話もできるのだろう。
「こうして見ると面白くはありませんか?」
「何がだ?」
「アリススタッフはちょっとタッチしてるってだけも含めれば二十人程度いますが、主には僕ら五人です。バービエル様、ペリエル様、アリエル、シャル、僕」
 片手を一本一本立てていく。ラファエルの応答を待っている。
 仕草で続けるように指示する。
「僕らの関係に矢印を書いてみましょう。僕はシャルが好き、シャルはラファエル様が好き。アリエルもラファエル様が好き。ペリエル様はバービエル様が好きで、バービエル様はもちろんラファエル様が好き。先日、僕たちはヒエラルキーと共にラファエル様とルルを見てると申し上げましたが、恋沙汰でも彼女を気にする僕ら五人の関係はすべてラファエル様に行き着きます。これは偶然にできた符号でしょうか?」
 反語だった。偶然を否定しても、何も出てこない。
「……ペリエルについては初耳だな」
「いちいち口で言いませんからねあの人。近くにいればわかります。
 そういった流れで、ルルはラファエル様を慕う天使たち――能天使のことは知りませんけど――で庇護して来ました。これが偶然でないならば『ルルにとってのラファエル様』も、恋慕を別にすれば同じ四大天使としてミカエル様に劣らない存在なのでは、と僕は踏むのです。
 よって、彼女の精神にミカエル様の傍にいることで補給されるものが必要なのであれば、ラファエル様のものでもよいのではないかという結論に至ったのですよ。
 ですので、できれば暇なときにでも側にいてやってくれませんか」
「わかった。善処する。……ミカちゃんのコートはどこやった?」
 枯れ枝となった少女が横たわる台の近く、床に踏みにじられていた黒いコート。
 意図は察したのだろう、おどけたように口角をあげる。
「シャルが癇癪起こして電撃でビリビリ引き裂いてしまいました。回収してあげようとは思ったんですけどね。あれはミカエル様からルルへのプレゼントだったんだから」
 フィリジエルが去った後、書類をそっちのけにして考え事をしているうちにバービエルが休憩のお茶を運んできてくれた。
 ソファに移動し、バービエルにも席を勧める。
「ねぇ、バービエル」
「はい、なんでしょう?」
「俺のこと好き?」
 急だったからか、彼女は面食らう。すぐにその面喰らった顔を押しのけて、おかしそうに笑った。
「ええ、もちろんですわ」
「お愛想じゃなくてさ。わりと真面目な話。もし俺が君の言葉か、行動に腹を立てて、死ぬかも知れないってわかっててわざとそんな戦場に行けって言ったらどうする? 上官から部下への命令ではなく」
 上官と部下の間なら、バービエルは『上官であるラファエルにとって最もよい選択』をとるだろう。だから、個人的な話を。
 質問の裏側が読めたのだろう。顎を引いて背筋を伸ばす。
「上官から部下への命令でないのでしたら――バービエルはラファエル様の命とあればどこへなりとも参ります」
「それで死ぬような思いしても俺のことが好きでいられる?」
「はい」
「なんだかなぁ」
 痒くはなかったが、耳の後ろを掻く。
「どうしてそう、自信たっぷりなんだ?」
「男性が疑り深いだけですわ。少しでも気にかけていてくださると――いつかは助けてくださると信じられるならどんな苦痛も女にとっては大したことじゃありませんのよ」
 そうだ、バービエルはサンダルフォンの攻撃から、肋骨が露出するほどの怪我を負ってまで、死さえ厭わずラファエルを守ってくれた。こんな問いかけは無意味だ。彼女は自分のために命を張ってくれるとわかっていて、くだらない質問をした。
 だが、もう少し続けた。
「……助ける前に死んじゃったら?」
「その死も愛する人の願いであれば、殉じるのもまた一つの幸福です」
「傷けるのが本心じゃないって知ってるくせに抗わず自分の満足のために命を懸けるのはただのエゴだろう」
「ええ、エゴです。でも」
 バービエルは大輪の花が咲く瞬間のように笑う。
「それの何がいけないんですの?」
 ひどく負けた気がして、ラファエルは肩を落とす。
「ルナスはその身をもって愛の証を立てました。――あとはミカエル様次第です」
「女は怖いな、本当に」
「ええ、怖いんです。だからラファエル様」
 愛しく首を傾げる。
「間違ってもフィルの言葉を真に受けて、ルナスの寝顔にキスなんてしないでくださいね
「……わかってる」
 ラファエル一人のときに来て喋っていったフィリジエルはこういった内容を他には喋らない気がするが、バービエルは内容をすっかり把握しているようだった。
 女というのは本当に怖い。


 少女の眠りを害すことがないよう、また、異変があったときは即座に対応できるよう、照明は薄く、ただし部屋全体が見える光度で保たれている。
 一人用のベッドと少しの什器がある個室。支払いはシャルだ。
 褥瘡ができないよう柔らかなメディカルマットを敷いたベッドの真ん中に埋もれ、血液の循環、生存を保つための体機能以外は動くことなく眠り続ける少女。時計が一秒を刻むこともない静寂の憩う病室なのに、呼吸すら耳を澄まさなければ聞こえない。外傷も内臓の不具合もすべて治してやりエネルギーも補給しているので、痩せてはいるものの身体の巡りは健康のはずだ。さすがに髪まで元通りに戻すことはできなかった。かろうじて残っていた髪はそのまま頭皮にくっついている。短く整えられ以前の呆れた長さの髪ではなくなっているが、『設定』されているからには起きれば元にもどるだろう。
(『設定』か)
 だと聞いている。上級天使でもなければ天使名簿にも載っていないのに『設定』されているのは不思議ではある。
 もしかすれば、天使名簿に載らない不義の子――インプロパ・チャイルドなら、誰も知らないところで規格外な『設定』をされていることがないとは言い切れない……されどそんな存在は必ず噂になる。彼女は目立つ。身長よりも長い髪で『設定』されている少女が当局に見つからないはずがない。
(あー、でも境界にいたのか)
 謎に満ちた少女。アリススタッフとやらは既に解明を諦めているらしい。
 編集された映像でしか起きている彼女を見たことのないラファエルは考える。ミカエルを愛してる女の子。酷い目に遭ったことが知られてなおミカエルへの愛を誰からも疑われることのない少女。
 ミカエルについて何を語るのかを直接聞いてみたい。
 指を伸ばしてほとんど睫毛の抜けてしまっている瞼をなぞる。癒しの力によって毛根の損傷がなくなっても体毛の発育まではどうにもならない。抜けていることは怪我でもなんでもないのだから。こればかりは自然に生え揃うまで、あるいは『設定』されている状態に戻るのを待つしかない。指の感触からすれば、睫毛は新しく生えてこようとしている。
 テーブルの脇にある椅子を寄せて座る。
 少女は昏々と眠り続ける。側にいても何かを吸い取られている気はしない。それはそうだろう。ミカエルだってそこまで鈍くはない。あれは馬鹿だが天界最強の天使の一人だ。身近に自分の力を吸いとる存在が始終傍にいれば必ず気づく。
 彼女は、彼を通して何を補給していたのか。ラファエルがここにいることに意味はあるのかないのか。
 でもきっと、ここにミカエルがいて名前を呼べば起きる。スタッフの誰もが確信しているように。ラファエルも少女から溢れる〈気〉に足を取られる。眠っていても、意識がなくても、ミカエルへの愛は途切れない。何者も遮れない。人魚やセイレーンが誘うように、遥かな海から竪琴をつまびき唄うように。その気持ちは他人の心さえ引っ張る。彼を愛しているのだと訴える。
(しかしなんだって当のミカちゃんは来ないんだ?)
 ラファエルが眠っているときは数回様子を見に来たという。なのに、彼女を預かってしばらく経つにも関わらず、ミカエルは一度として見舞いに来ないし容態の確認等の連絡をしてくることもない。
 任せっきりでも大丈夫だと信用しているのだろうが、あれだけ派手に白い部屋を全壊させて来たにしては催促がないのは変だ。ミカエルなら怪我が治ったからにはとっとと連れて帰って自分ちで療養させて、好きなときにラファエルを呼びつけて容態を診せるくらいするだろうに。
(……まさか、ねぇ)
 ミカエルらしからぬ行動の理由が脳裏をかすめるが、打ち消す。そういう奴じゃない。……たぶん。
 額に触れる。冷たい――ラファエルの手よりずっと低い。まるで真冬の野外に放置された子供の体温。
 毛布が足りていないことはないだろう。彼女の管理はシャルが私情入りまくりで徹底的に行なっている。空調も管理されている。無闇に厚着させればいいというものでもない。
 癒しの力を流してこんでみる。手を当てた場所は温かくなるものの、その温かみは体を巡らずすぐに元の温度に戻る。ラファエルの癒しが届かない。ならばこれはこれで正常なのだ。
 カルテを見た限り、平熱が低すぎるとの報告はあがっていなかったのだが。こんな体温で生きてればミカエルの傍はさぞ温かくて居心地がよかったに違いない。
 シーツに隠れた左腕を持ちあげる。加護の残滓も残っていない左腕。右腕と足は、もう消えているが切断した跡があった。異能の力がどこを流れて発露するのか調べたのだろう。が、この一本だけは、憂き目を逃れていた。
 癒すときも疑問を持ったので元に戻した後検分してみたが左腕には何もない。ただ、バービエルは言った。ルナスの左手首には――ミカエルの羽根を付けたブレスレットがあったはずだと。
 ピュアなことだ。それが理由なのであれば、白い部屋の研究者も彼女の左手には触れられなかった。ミカエルの羽根が左手だけでも彼女を守った。彼女にとってミカエルの羽根は最後のよすがだっただろう。
 だが、ブレスレットはラファエルに渡されたときにはなかった。羽根が触れられても許す相手は――ミカエル本人。ラファエルに渡す前に、そのブレスレットを見つけて千切った。
 どんな心境だったのやら。
 無論、羽根が彼女を守ったのは、ミカエル自身が彼女を守ろうとしたのと同義。
 何を思って外したのやら。
 ポケットから通信端末を出し映像なしでコールする。しばし待って、回線が開かれる。
『なんだ』
「俺」
『んなのわかってるよ。なんの用だ?』
「悪いけど、まだお前のお姫様は起きてないよ」
『誰が俺の姫だ。あれが起きてないんだったらなんだ?』
 ラファエルは笑うのを堪える。『お前の姫』と呼ばれるのがこの少女だという認識はあるらしい。
「別に用がなくてもいいじゃない。たまには他愛ないお喋りでもしない?」
『気色悪いこと言うな。お前が用もないのにかけてくるはずないだろが』
「まあね。ミカちゃん、今何着てる?」
『着てるって、服か?』
「そう」
『……フツーのシャツとズボンだよ。それがどうした』
「ふーん」
 ラファエルはわざと勿体ぶって間を空けてみる。
『ラファエル?』
「ミカちゃん、今すぐそのシャツ脱いで俺のとこ送って。職場のほうに」
『はぁ? 今これ着てるやつか?』
「うん。下はいらねーからジャケット着てるならそれも」
 胸元を引っ張っているような気配がする。
『何に使うんだこんなもん』
「実験」
『またなんか企んでやがんな』
「いーからさっさと送って。今すぐ。成功したら余禄はちゃんとわけてやるから」
『別にいいけどよ』
 素直に脱ぎ始める衣擦れが聞こえて、
『なんだよ。切れよ』
 お前こそ切ればいいだろと言いたかったが。
「俺に聞きたいことないの?」
『ない』
 ないのに切らないのはどうしてなんだ?
「俺いまルルちゃんの病室にいるけど」
 音声だけの通信でもはっきり脱衣の手が止まった。ルルでも通じるようだ。
『だからなんだよ』
「様子気にならないの?」
『寝てんだろ? 様子も何もねーだろ』
「寝顔、とっても可愛いよ。見たくない?」
 切れた。
 目の前にいるルシアは、主に頭髪に悲惨な経験の傷跡を残していて可愛いとあっさり言える容貌ではないので、ミカエルが見て楽しいものではなかろうが。
 ――一緒に暮らしてたんだから、寝顔くらい今更か。
 その記憶を、この憐れな姿で更新したくはないのだろう。
 ラファエルは、この二人の行く末を生ぬるく見守ろうと決めた。
 生ぬるく。
 約一名を除いたとりまく全員、同じ気持ちなのに違いなかった。

          *

 見上げれば一面の白い板。
 空ではない。まして地上でもない。あの白は壁だ。高く、目の前に広がり続ける壁。
 飛べたらいいのに。彼女は思う。飛べさえしたらあの壁を越えてあの人のところへいけるのに。
 彼女は雪の中に埋もれていた。でももう、吹雪いていない。寒くもなければ痛くもない。
 代わりに、四肢はすべて付け根近くから割れて無くなっていた。
 懸命に進んだのに、できる限り前へ進んだのに、この閉ざされた白の海から抜け出すことはできなかった。その痛みが嗚咽をもたらす。
 こんな姿じゃここから出られない。あの人のそばに行けない。あの人を追いかけて歩くことができない。あの人のためにお茶を淹れてさしあげることもできない。
 体の痛みなら耐えられる。あの人のためならどんな屈辱にも負けたりしない。
 けれど、この白は簡単に彼女の心をくじかせる。
「もう限界なのよ」
 逆さに自分の顔が覗き込んでくる。
「消えて」
 目覚めれば忘れてしまういつもの悪夢。同じ顔をしたもう一人の彼女が語りかけてくる。
 心の深い場所に落ちた、触りたくない箱。《エス》は夜ごと彼女の姿で現れて開けなさい、思い出しなさいと彼女を飲み込もうとする。
「記憶なんて要らない」
「どうして?」
「記憶が戻ったら、あの人の――ミカエルさまのそばにいられなくなってしまうわ」
「ミカエルさまは《わたしたち》を手放したわ」
「それがなんだというの? あなたを出しさえしなければ、また戻れるかもしれない」
「もうミカエルさまのそばにおいてもらえる理由はないのよ。《わたし》を出したところで《わたしたち》にこれ以上不都合なことは起こらない」
「先のことはわからない」
 《エス》は逆さになった顔を上げて、ギリギリ視界の中に映るところに立つ。その姿は深い赤のシャツに黒のズボンにブーツ。結い上げた長い髪。彼女のすべてを盗んだ姿。
「いいえ、この姿は《わたし》。《わたし》はあなた、あなたは《わたし》」
「あなたが私ならここから出して。私はミカエルさまのおそばに行きたいの。わかるでしょう?」
「ええ。でも出せないわ。《わたしたち》は疲れきって深い眠りの中にいる。あなたに《わたし》は必要なのよ。《わたし》とあなたが揃って初めて《ゼクス》になる。わかるでしょう? あなたが《わたし》を受け入れない限り、《わたしたち》は目覚められない」
「だって」
 声が震える。
「あなたを受け入れたら私は私じゃなくなる。あなたを押し殺して生きてきたの。あなたが混ざったら私は私じゃなくなる」
「元々《わたし》はあなたの一部。あなたも《わたし》の一部。たとえば、ご覧なさいあなたの四肢を。割れて無くなった手足を。その手足を埋めるのが《わたし》。何が怖いの?」
「心は体と違う。私は私であることを否定したくないの」
「誰も否定しない。《わたし》だってそんなことを否定するためにあなたに語りかけてきたんじゃない。ねぇ、ここはあなたと《わたし》の世界、あなたと《わたし》で一人分の世界よ。《わたし》はずっとここにいたし、あなたもいた。《わたしたち》はいつだって一人よ。
 あなたはここから出るときいつも《わたし》を置いていく。連れて行った先にある未来が見えないから《わたし》を恐れる。でもね、《わたし》はそんなに怯えるものじゃないわ。《わたし》は元々あなただもの。怖いことなんて何もないのよ」
《エス》は手を伸べる。
「あなたは《わたし》。《わたし》はあなた。ミカエルさまを愛してる。これからも愛し続けるために、《わたしたち》は《ゼクス》にならなければならない。嘘偽りなく全身全霊を込めてあの人を愛していくなら《わたしたち》は《ゼクス》でなければならないの。
 そして、《ゼクス》にならなければずっと目覚められない。目覚めなければあの人のそばにもいけない」
 まばたきをすると、涙がこぼれ目尻から耳のほうへ伝う。こんな涙、本当は流していないのに。
「約束して」
「何を?」
「私が私でなくなっても、あの人のためにお茶を淹れて。あの人のために笑って。あの人のために唄って」
「そんな約束は無意味よ。だってそれをするのは《ゼクス》だもの」
 《エス》は笑う。
 欠けた両腕をあげた。左、いつのまにかなくなっていたあの人の羽根がついた黒いブレスレット。
 《ゼクス》になれば、もう一度手首を飾ってくれるのだろうか。
 《エス》の手が腕の断面に触れる。触れて、その両方が熔ける。熔け広がっていく。
「さあ、もう一度生まれなおしましょう、沈黙を殺して。楽園へ向かいましょう」
「楽園なんて要らない。あの人のそばにいたい」
「あの人のそばが《ゼクス》の楽園よ」
 《エス》と熔け合う最後の一瞬で彼女は肯定した。
「そうね」


 鍵を回せば錠が落ちる。
 ねじを巻いて開けば唄いだす。
 オルゴールが奏でるのはいつだって懐かしいあのメロディ。




 



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