それではだめ。
それではだめ。
それではいくらあの子があなたを愛しても、あの子はけしてあなたの手には入らない。
ねえ、知らなかったの?
あの子はあなたを愛しているのよ。
あなたがそれでは、無意味なことかもしれないけれど。
*
たくさんの密かな喋り声が一斉に響くような、静かな雨が聞こえる。仕事部屋の開けたままの窓から、一片の曇りもなく。幾万幾億もの雨がぶつかり、やがて地表や建物に当たる音。
もう一本余計な腕を伸ばすような気持ちで、窓の外の大気を『押し』てみる。風が動き、雨の軌道が変わり、音が変わる。放っておけばすぐ元に戻り、また囁きのような細かい雨が絶え間なく降り続ける。
実際にいくつかのそれは本物の囁き声だったのかもしれなかった。
ミカエルが来た。四大天使は兄弟のようなもの、気をつけていればお互いの距離感くらいはわかる。
思っていたより早かったが、目当ての子は連れ出せたのか……自分の家でなくこっちに来たのだから、愚問か。人の部下を蹴りつけて派手に泣かして、彼女がやろうとしていたことを横取りしてまで行ったのだから、目的を達成せずにおめおめ戻ってきたりはしまい。
どのみち、白い部屋は何もかもぶっ壊してきたんだろうが。そういう奴だから、あいつは。
ほどなく、きっとバービエルが呼びに来る。だからラファエルは椅子に掛けておいた白衣を着直してボタンを一つだけ留めて軽く準備を済ませた。
白い部屋に連行されていった者が受けるのは人権無視の検査と実験。
前にも同じ境遇に陥り、奇跡的に出ることの出来た患者を診たことがある。
ミカエルが自宅に連れ帰る前にラファエルの元に来る理由は一つ。
彼が抱えて戻ってきたお嬢さんは、まともな姿をしていない。
一言、幸いにもと付け加えるのならば、かろうじて死んではいないことだろう。もし死んでいたのなら、ミカエルの気がこんなに静かなわけはないから。
さて、その姿が脳か、だるまか、はてはミイラか……考えたくもない。
息をしていれば、心臓が動いてさえいれば、脳に血液が通ってさえいれば――生きている、そういうものではないのだから。生きる、ことは。
先程まで見ていた映像機のスイッチを、もう一度入れる。
長い金髪を風に流して唄う少女の姿が画面に浮かびあがる。律儀に記録されていた観察ビデオ。
初めの映像は、届けられた日のぶんが数分。入院記録のための事務的な声と事務的な作業を映した、事務的なビデオ。
スキップ。
日付が飛ぶ。楽しそうな女の無意味な笑い声と、表情の動かしかたのわからない風情でスタッフになされるがままになっている少女が映る。長い髪をまとめてもらっているらしい。すっきりしたところで、画面の外から笑う赤毛が入ってきて少女の前に座り、簡単な日常言葉を繰り返しその反復を要求する。
辿々しい調子で、少女は意味も解さぬ言葉を、促されるがままに真似る。何度か上手く言えたところで、今度はカメラに向かって誘導なしで同じ言葉を言ってみせる。
『ヴェリーグー。オーケーよ。次はどういうときに使うのかね。いい? これが「ドア」。こうするのが「開ける」よ。「開ける」で、こっちが「閉める」ね。やってみなさい。「開ける」ー』
ディスクに几帳面な字で書かれたタイトルは「るっちゃん成長記録」。銘に違わず、以降ずっと、こまめに彼女の生活と学習進行の様子が記録される。
彼女が成長過程について興味があったわけではない。記録に目を通したのは、半分は義務のようなもので、もう半分は馬鹿が何を考えているのか邪推するための材料集めのつもりだった……のだが。
三分の二ほど流し見たところだ。だるい後悔がこみあげた。
結果が分かってるのだから、こんなのはせめて、まともな姿に戻してやってから見れば良かった。
ラファエルは映像をスキップしていき、後悔の原因で自虐のように画面を止めた。
それは、彼女がミカエルの元へ行くことになった、と彼女に聞かせたときのシーンだ。
笑った顔。
笑うことは既に覚えていた。が、まだそれはうすく、どこかぎこちない微笑みかたに過ぎなかった。簡易の杭を入れたり外したりしていたことの影響もあったに違いなかったが、条件はその時だって変わりはしない。だが、忌まわしげな色を隠しきれないシャルの声が、ミカエル様のところで暮らせるわよ、と言った瞬間。
この世の幸せそのもののように、少女は笑った。
その笑顔がシャルをどれだけ傷つけたかは察しようもないが……少なくとも、ラファエルに少女との対面へ多少の覚悟を必要とさせるには充分な威力だった。
ポーズを解く。
シャルが尋ねる。
『そんなに嬉しい? ……そんなにあの人が好きなの?』
少女は表情に宿す幸福をいっそう深め、一言。
『愛してる』
嘘であるものか――疑えるものじゃない。
事実だけを揃えていけば、この発言はおかしい。顔を会わせたのは境界周辺で彼に拾われた時のみ。その時の記憶さえ彼女は失っている。記憶を失って流浪する前に会ったことが、あるいは見たことがあるのだとしても、『この』彼女はミカエルを知らない≠ヘずなのである。
顔を見たことのない相手であろうと、教育によって敬慕を持たせることは出来る。だが教育係がアレなのだからそのようにするはずがないし、記録を見てみてもほぼ彼女の発言は自発的だ。
彼女の愛は無差別ではない。四大元素の力と相性がいいのだというが、それを一因としてミカエルを恋うのであれば、ラファエルとて条件は同じだ。ウリエルでも、ジブリールでも。
彼女の愛はミカエル一人にのみ、ひたすらにそそがれている。
辻褄が合わなくても理由が不明でも関係なく、幸福の笑みは純真な、言ってしまえば白痴のような正直さで愛を語る。彼女に嘘をつくような知能はない。まっさらに隠しもしない感情と質問への答え。
この笑顔を向けられてミカエルは暮らしていたのだ。毎日。
惜しむまもなく溢れこぼれる愛情、こんな下らなくて無垢なものを。
なんだって、無下に捨ててしまったことか。どうせ受けとめ損ねたのだろう……そういう奴だから、あいつは。
「ばかなことしちゃったな、ミカちゃん」
ため息をつく。
早く起きてやれれば良かった。そうしたら、きっとミカエルは白い部屋になんかやらずこっちに戻してきただろう。ほとぼりが冷めるまで嫌な顔だけしながら快く預かってやったし、返してくれと言ってきたらひやかしを入れながらリボンで包んで返してやった。
タイミングが悪かった。ラファエルの責任ではないし、どうすることもできない事柄ではあるけれど、あと少しどうにかなれば事態の波はなだらかで済んだだろうに、と思う。
ノックがされる。
「ラファエル様――ミカエル様が、いらっしゃいました」
「ああ。いま行くよ」
少女の笑顔に別れをつげる。
そして彼女に会いに行く。
進んでやりたいことではなかったが、やらねばなるまい。馬鹿な親友のためには。
バービエルを従えて緩いカーブを描いた長い廊下を行く。段々ざわめきが大きくなるにつれてラファエルの足は自然と重くなったが、ペースを落とさない。
指定された部屋の出入り口には、入ろうとしているのか出ようとしているのか人が詰まっていた。ざわめきの発生源はそこで、不穏な空気が部屋の中から漂ってくるのを感じたその刹那、意味不明な叫び声が聞こえると同時、
ラファエルの数メートル手前で壁が中からぶち破られた。
二人の天使と事務机が宙で廊下を横切って、反対側の壁にめり込みながら受けとめられる。
「ボケナス! ぴーまん! あっちいけ! いかないなら死ね! 殺してやる!」
ドアの人垣が崩れ、中から青くなった男性職員が何人も飛び出し、その後ろをはさみだのメスだのの凶器が追いかけ、終いには疾駆する足音に似た銃声とともに鉛弾が散った。
確実に白衣の肩が落ちていた。バービエルも後ろで同じ顔をしているに違いない。
「シャル……」
ため息に乗せて呟く声が、疲れが滲んでいながら聞いたことがないほどに色っぽかったことを彼女に伝えている余裕はなさそうだった。
ドアから顔を出す――部下とはいえバービエルを弾よけにはできないから、自ら先頭に立って。
赤い髪は元来が癖毛であることを差し引いてもひどいぼさぼさで、服から出た肌はどこもひっかき傷だらけで、十本の指は例外なく包帯が巻かれていて、インプロパ・チャイルドのような赤い目は哀れっぽく濡れていて、全くシャルは憔悴仕切っていた。
年季の入った構え方をした銃でもって、その背に彼女の大事なものを守っている。……何からかは知らないが。
「ら、ふぁえるさ、」
シャルは驚いたように目を見開き、指で引き金を引きながら腕でその銃口を上にずらした。
たたたたたた、と、射出された弾丸がラファエルの頭の上方を叩く。
ドアに肘をついて失望の嘆息をしてみせると、シャルは銃を取り落とし、めそめそ泣き始めた。部屋の端に避難していたアリエルが、ほほほほ、とお追従的な微笑みをラファエルに向けながら彼女を引っ張って端まで連れて座らせる。
部屋中で安堵の息が漏れた。
スタンバイしていたのは女性スタッフばかり(シャルは男を全員叩き出していたのだ)。
白い布が、診察台とその上に載った、人にしては薄く小さな小さな膨らみ覆っている。まるで死人にするように。
近くの床で、男物の黒いコートが踏みにじられていた。
何度目かの嘆息をする。
白布の端を掴みめくる。女性達が顔をそむけた。シャルが嗚咽を洩らすのが聞こえた。
――ここへ来る最中、ミカエルに会った。彼は漠然とした顔で廊下で壁に背を預けて座っており、ラファエルを見つけると、おう、と言って軽く立ち上がる。
「頼む」
すれ違いに片手を挙げて、どこかへ行ってしまった。
たまらないな。
ラファエルは口に出さず独りごつ。
成長すればジブリールほど美しくなるだろう、と言ったのはあながち嘘でもない。土台は良い。金髪碧眼と白い肌、色合わせはスタンダードな美女の条件を揃えていたし、顔の配置も崩れていない。体のほうは成長を見ないことにはわからないが、見る限りスレンダータイプ。アレクシエルのような、たくさんの男を惹きつける色気を備えた派手な美貌にはならないにしろ、上手に育てれば充分鑑賞に値するほど美しくなる。
はずだった。
写真や映像で見た面影など一つもありはしなかった。
思わず笑いそうになってしまう。
そこに横たわっているのは老婆にも見間違える枯れ枝だ。
深い土気色の肌は風が吹けば剥がれそうなほど乾ききってまだらに黒ずみ、縦に皺が寄って関節の丸みを強調して骨に張りついている。梯子のように肋骨がうき腹はへこみ、四肢のうち三本は、一回切り離して粗雑に接着した跡があった。くっつけたところでずれており、神経などまともに通ってもいない。壊死し始めた指先、二十の爪は紫に染まって根元から例外なく腐っている。
顔は、
どんな上手なお世辞を言おうにも、単語は出てこなかった。
唇は皺がより半開きの口に垂れてほとんどない。眼窩は黒く落ち窪み、眼球の丸みだけぷっくり膨れていたが、その眼球も薄く開いた瞼の向こうで濁りきり、光は失われている。
頭皮に触れると、残っていた髪が音もなく抜けて、指にまとわりついた。
でもまだ生きていた。
でも、まだ生きている。
*
壁に頭をぶつけてみた。家に帰ってから一番先にやった。
あれは……何だった?
ルシアの容姿は見苦しくなかった。もっとはっきり言えば、部下共やラファエルがそう言うように子供にしては小綺麗なほうだった。
あれは誰だった?
思い出す。
ルシアの、髪。目や、肌や、体温や、重さや、声。みんな覚えている。笑顔も。忘れようとした。でも、記憶から出て行かなかったものたち。
……あれは、何だった?
『いいか、俺は間違えてない。あんたの目的の女の子の部屋はそこだ』
あの男はたぶん頭が悪い。
間違えるわけがない。あれは、ルシアだ。
ルシアはあんなにハゲてなかったし、ルシアの目はあんなに濁ってなかったし、ルシアの肌はあんなに黒く乾いていなかったし、ルシアが冷たいのは手ぐらいのものだったし、ルシアは、あんなにまで軽くなかった。
ルシアはミカエルを見れば必ず笑って呼んだ。
「ミカエルさま!」
と、笑って……。
なんにもなくてもルシアだった。
頭をぶつけた壁を背に座りこむ。
あれはルシアだった。
暗い部屋の中、椅子に座って、細い細い息を立てながら澱んだ目を動かすこともなくこっちを向いていた。
言われなくたって、間違えようもない。どんなに姿が変わっても。散々傍にいたのだ。ずっと連れて歩いていたのだ。わかる。海に消えたときのように、彼女を探せばいる。
……そこにはルシアと一緒に、自分の気もあった。
海で探したときと、同じように。
抱えるように曲げた膝に額を落とす。
手の中に握りこんだものが音を立てた。
黒いブレスレット。天使の、羽根のついた――
ルシアの左手首。
俺の羽根。
「……ッカヤロォ……」
こんなもの、大事にしていた。
あの馬鹿は、どこかで拾って、飾りにして、手首につけて、裏切られても、あんなところでも、ずっとずっと、
ずっと、こんなもの、大事にしていた。
「馬……鹿か、あいつ……あいつ」
馬鹿に違いない。馬鹿だ。まごうことなき馬鹿ったれだ。
だが、その馬鹿が自分の顔を見て笑わなかったことに、こんなに驚いているのは何なのだ?
違う。笑わなかったことじゃない。迎えにいってやって、ルシアが死んでいることや、怒ることは想定に入れていたのだ。一発や二発くらい殴られても許してやろうと思っていた。泣いたのなら頭を撫でてやろうと思っていた。
「ルシア」
名前を呼んで。
「帰るぞ」
言ってやって。
生きていたのに無視されるとは思わなかった。
無視したんじゃない。ミカエルのことがわからなかった。わかったとしても、反応できる体じゃなかった。
そんなの、わかってる。
でも、なんで、
なんで笑わなかったんだ。
そればかり考えている。
熾天使最高会からの煩い呼び出しを叩き壊して、左手首から引きちぎったブレスレットを握って、そんなことばかり考えている。
*
「やめてよぅ、録らないでよ、こんなの、やだ、やだぁ」
軟体生物思わせながらシャルは記録用撮影をしようとするスタッフの腰に泣いてまとわりついて、仕事の邪魔していた。
「ちょぉーっと、規則なんだからしょうがないでしょ! どいて! 早く済ませれば早く治して頂けるでしょうが! どけー!」
長い銀髪を揺らめかしながら遠慮なくシャルの額を叩く彼女の名前は忘れた。
本来このような記録はラファエルが来る前に済ませておくべきものなのだが、馬鹿の(赤毛って馬鹿ばっかりだ)せいで、到着後数分経ってもまだ終わらない。
その間干からびた少女はもちろん診察台の上に横たわったままで、寂寥と無惨な姿を晒し続けている。よっぽど可哀想で見てらんないのだが、シャルは記録に残される方が嫌なようである。バービエルも暇ではないので(ラファエルも決して暇ではないのだが)、少女の姿を確認したあとはまた仕事に戻った。彼女に一発平手打ちでもされれば、シャルも少しは正気を戻すだろうか。
「元々、シャルは研究派で、臨床には向かないんですよ」
バービエルを呼ぶように言いつけようとすると、すぐ後ろにフィリジエルがいた。両手に持ったカップの片方をついと上げる。
「いかがです? 立ったままですが」
湯気を立てるのはココア。
「目が覚めたら、飲ませてあげようと思って。……好きなんですよ」
受け取って口をつける。苦い。ミルクで淹れてあるが、砂糖はなしらしい。
男同士並んでココアを飲むのも居心地の悪いものだが、フィリジエルはそんなことは気にならないようで。尤も、はたから見れば二人は男女に見えることを本人が承知しているからだろうが。
「……あれ?」
疑問を口に出すと、隣に立ったフィリジエルは肩をすくめた。
「僕は、彼女に男だと認めてもらってないんです」
「ああ、そう」
相変わらずシャルのせいで撮影は進まない。
フィリジエルはずずぅ、と、老人が縁側で茶でも啜るかのように音を立てる。そして、はあ、と吐息をつく。
「案外冷静なんだね」
「覚悟していましたからね。シャル以外は」
聞き返されるのを考慮に入れて投げかけた言葉は正確に受け取られ、返された。冷凍睡眠前にはさほど話すことのあった部下じゃないが、愚鈍ではないらしい。と、初めから彼がその話しをしてきたのだと思い当たる。どうやら愚鈍になっているのは自分のようだ。ラファエルは苦笑した。調子を取り戻さないことには、仕事中に失態を見せかねない。気をつけよう。
「シャルは、すぐ患者に思い入れるし影響されるし、トラウマ持ちだし、打たれ弱いし、数字でも感応値はべらぼうに高いし……だからあんまりね、被検体や患者なんかと接触しないほうがいいんですよ」
「だが、」
思い出すのに数秒かかる。
「まめで世話好きじゃあなかった?」
身長の違うラファエルの目を見て、口元だけで笑う。
「それ、ラファエル様が知っていらっしゃるって聞いたら、喜びます。
そうなんですよね。自分がああいう気性だってわかってないはずがないのに、世話したがるんですよ。そこまで含めて性格なんでしょう。
だとしても、ルシアへの思い入れは尋常じゃありませんが」
もったいぶって言葉を切る。
「どういうことだ?」
すぅっと視線で診察台の少女を示すのを追って、少女を見るが。
「何?」
「わかりませんか? ……無理もないですかね、あれじゃ」
「もったいぶるな」
「すみません。あのですね、似てるんですよ、ルシア」
「死んだ友達っていう女の子?」
「いいえ、あなたに」
沈黙。
「……俺?」
「イエス、力天使長」
「なんで?」
「何故ルシアがラファエル様に似ているのか、と問われているんでしたら、そんなのは僕にわかることじゃありません。何故僕がそう思うのか、と問われているんでしたら、そう感じるから、としか答えようがありません」
「ペリエルのような言い方だな」
「上司が精神を侵蝕してくるのには怯えるばかりです」
嘆息して、空のカップを返す。フィリジエルは近くのスタッフに押しつけて、ラファエルの隣をキープし続けた。
撮影はまだ終わらない。
ラファエルは映像データを脳内で再生しながら、少女と自分との共通点を探した。……かろうじて髪の色は同じか。瞳の色も、似てると断じられてしまえば誤謬だと指摘することもない。だが、そんなものだ。
「どこが似てるって?」
フィリジエルは笑いを漏らす。
「顔貌じゃありませんよ。雰囲気です。こういうのって、本人にはわからないとこなのかもしれませんね」
ますますわからなくなった。雰囲気? 最も似ようがなさそうなものを。
「とは言え、僕の所感では、ラファエル様だけに似てるってんでもなさそうですけど」
段々彼の言葉遣いの端々が地に戻っているのに気づきながら、ラファエルは促した。
「どういう意味だ?」
「ルシアの力が四大元素と相性がいいって資料は?」
「読んだよ」
「ならおわかりでしょう。ルシアは、四大元素天使のお四方に似てるんです。知ってます? あの子は一部の能天使らにも可愛がられてたんだそうです」
「ミカちゃんに……似てるから?」
フィリジエルはゆっくりした瞬きと共に頷く。
「だと思います。じゃなかったら説明がつきませんもん。普通、上官が預かってるからって頼まれもしないのにあの荒くれ共が子供なんか相手にしますかね? いじめるんじゃなく。
僕らだってそうです。プロフェッショナルの力天使が、たかが迷子にここまでかかずらうと思います? 僕らはずっと、あの子の後ろに……一緒に、かな。ラファエル様を見ていたんです。ヒエラルキーに生きる悲しい天使のサガってやつをひきずってね。見捨てられませんよ。
中には逆に気持ち悪いって感じて、絶対近寄ろうとしない人もいますけど」
淡々と語るフィリジエルは、自嘲めいた口振りでありながら、楽しんでいる節があった。節があったというか、楽しいのだろう。
「僕的には、ラファエル様がどっかで作っちゃった隠し子説を唱えたいんですが?」
キンパだしな……と、語りにのせられて半分肯定に傾きそうになりつつ、慌てて首を振る。
「ありえない」
「では他のお三方の」
ミカエル、ウリエル、ジブリールの順で三人の顔が脳内を巡る。女嫌い、片想い、潔癖性。
「もっとありえない」
「では彼女は一体どこから湧いて出たんでしょう?」
「知るか」
手を振るとさらには食いついて来なかった。
「どこだっていいんでしょうね。僕はルシアが好きですよ。彼女は居心地がいいもの」
「大方で一致した意見なのか?」
「いえ。全部僕が勝手に分析した結果です。間違ってないと思いますよ。それなりに勉強はしてます。さて」
首を鳴らし、腕を回す。
「もう止めますね。うざいですし」
言うとすぐに歩いていって、シャルを見る目がゴキブリでも見るかのようなものになっていたスタッフから、襟首を掴んで彼女を引き剥がし、かくっと膝が折れたところを平手打ちにする。
「いい加減にしろ」
見た目が女でも、男だ。突き放した言葉でも、腕を掴む手は気遣いを落とさない。
シャルは子供が言い訳するように大仰に手ぶりを駆使して、
「フィル、だって、こんなもの残ったら、」
「あとで僕がファイルごと始末しておくよ、それでいいだろう?」
「…………医療現場のおだく?」
「必要悪とも言う。ていうか、シャル、じゃま。仕事しないならあっち行って。あ、アリエルいないと思ったらそんなとこ隠れて! なんで君が止めないんだよ!」
じゃまと言われてそれがショックだったのでもなかろうが、おぼつかない足取りで診察台から離れるシャル。ラファエルの視線に気づいて、近くにいたことに驚いたのか光が揺れる目を丸くして、そしてぎゅっと固く閉じて、涙をこぼした。
「助けて下さい」
今まで自分が助けるのを邪魔していたのに……もしかしたら彼女自身のことだったのかもしれないが。
「うん。いいよ」
軽く請け合い(重くしてもしょうがない。大体少女を癒すのはシャルのためじゃない)、すれ違いざまに軽く手のひらを頭に置く。
と、その手が掴まれる。急に軍人らしい俊敏さで。
「いい子なんです。本当にいい子なんです。可愛いとか、役に立つとかじゃなくて、きっとラファエル様も気に入ります」
瞳を定め真っ直ぐラファエルを見据える。赤く色づく虹彩の模様すら見分けられそうなほど。懇願である。媚びを含んでいたが、狂気にも似た凛々しい懇願だった。
ラファエルは内心うんざりしつつ、それを隠す努力はせず、かいなでの愛想で応えた。
「俺を誰だと思ってるんだ?」
「……『神の癒し』……」
囁くように口にする。
今となってはその二つ名が善きものかは不明だが。
シャルは恥じ入って目を伏せた。
解放されて、ラファエルは診察台の前に立つ。
「風を通して」
命じると、心得たスタッフ達がすぐさま通風口の切り替えをし、外とのアクセスを開く。
数秒もせずに、狭い道をくぐり抜ける音を響かせながら大気が舞う。空気が軽くなり、呼吸が楽になる。まだ止まないのだろう、雨と濡れた草の匂いがする。
風が満ちる。
微細な一つ一つをエレメントを聴き、集める。
風は旋律になり、唄になり、唄を越すと可視の光となる。
こぼさぬように手のひらにのせ、涸れた少女の胸の前に手を翳し、ほんの少し、押す。
少女の体に光は沁みて、やがて細胞のすべてをひたし、あるべき姿への回帰を呼びかける。
ラファエルがそっと誘い促すと、
*
「…………ミカちゃん? 終わったよ。一通り元に戻しておいた。今はまだ衰弱してるから栄養補給中。髪もすぐ生えそろうと思うよ。……いや、まだ。……え? ちょっと待っ、ミカちゃん?」
「どうなさったんですか?」
「『目が覚めたら連絡しろ』だって。切っちゃった」
バービエルは悪戯っぽく肩を縮める。
「今すぐに来て下さっても、あの警戒網をくぐってルナスと会うのは難しいですわよ」
「急いでくれないのは好都合か……。でもどーすんの、あれ?」
「ルナス次第ですわね」
窓の外を遠く見、微笑む。
「目が覚めて『帰りたい』と言えば、シャルが負けますわ」
*
「どうして目が覚めないの?」
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