窓枠に腰掛けて外を見ると中庭が見える。樹が生えている。さほど背の高くない、果物の樹。真っ直ぐではなくどれも少し、または大きく傾いでいる。いずれもどこかでバランスがとれているのか、
なぜか倒れそうな気配はない。等間隔で整然とではなく、ばらばら、まちまちに植えてある。実が熟れすぎて自重に耐えきれず落下し、いくつも散らばってやわらかな実をさらけ出す。虫たちが寄って食いあさる。
その周りにも、せいぜい腰までの小さな木々が繁る。あれは、花の咲く木だ。咲いているのを見た。葉の緑も隠すほどに白や薄紅の花が咲いていた。段々と減っていった。今では数輪、それも生気なく項垂れているばかり。
風が吹いて、枝が揺れ、葉が擦れあう音をたてる。それは、川の流れる音にも似ている。
穏やかな日差し。午後の、一日のうち一番あたたかな日差しが燦々とふりそそぎ、そこに根を張る樹木と葉にあたり中庭に濃い陰翳をつける。同じ色のはずのものが、濃い色と、鮮やかな色に分かれる。葉が揺れると、あわせて下に影の間を縫ってそそいだ小さな光も
共に揺れる。
ちょっとその気になって、火をかけてしまえば一時間後にはすっかりなくなっているだろう。
「や」
「勝手に入ってくんじゃねーよ」
「だったら壊れた呼び鈴直すとか、玄関の鍵閉めておくとかしなよ」
焼いちまえばなくなるのになぁ、と思ったことは何度もあるが、実際に焼いてみよう、焼こうと思ったことはない。
首を逆方向に捻る。昔通りの私服で、旧友ラファエルが立っている。
「酷いじゃない、ミカちゃん。あれから全然会いに来てくんねーんだもん」
「ああ、悪かったな。それよかテメー出歩いて平気なのかよ?」
「普通に出歩くくらいならね。体調は落ち着いてきたんだけど、まだ仕事には復帰してないから暇で。遊びに来た」
ラファエルは寄ってきてミカエルが見ていた窓の外を見た。
「……なんか、庭の趣味変わった?」
「俺じゃねーよ」
窓枠から降りる。もの問いたげな視線を背中に感じたが、無視する。
「で? わざわざ家まで来るってこたァ遊びに来ただけってわけでもねーんだろ?」
「ああ、うん。報告することがあって。こないだ、俺の病室に殴り込んで来た子のことで」
殴り込んできた子。何だっけか、と考えて、記号が浮かぶ。
――ああ、ルシアのダチだとかいう女だ。
*
「脱走したぁ?」
書類を纏めて届ける途中で受けた報告に、アリエルは呆れ半分、絶望半分に言った。
「いつ?」
仕事仲間の青年はうんざりしたような、青ざめたような顔つきで肩をすくめる。
「さっき……監視カメラとセキュリティシステムがガッツガッツのボロッボロになっていた」
妙な声混じりのため息をついて頭を抱える。あの、シャルは。どこまで人に迷惑をかければ気が済むのだ。
弊害が大きすぎるのでコールドスリープからはすぐに出したが、病室の一つに重度精神病患者と同じ扱いで、拘束具もばっちりつけて放り込んでいたのに、どうやって逃げ出したのだろう? どうやってでも逃げ出したのに違いないが、その根性とバイタリティには心から感服する。別のことにそれを使ってくれればいいのに。がしかし、シャルがそこまで必死になるのは、これ関連のことしかないのもまた事実だ。
いい子なんだけど、いい子なんだけど、いい子なんだけど、本当にいい人なんだけど、すごく迷惑だ。巻き込まれる立場で、ほっとけない位置にいるものにしてみれば、とても、とても。
しかし。
並々ならぬ愛情を注いでいたルナスだからということもあるのだろうけれど、きっとアリエルが同じ状況に陥ったら同じように悲しんでくれるのだろうと思えるから、知らない、と放っておけない。ルナスのことは人ごとではないし、そういうシャルをアリエル自身好きなのである。何とかしてあげたい。出来るものなら。
「見つからないの?」
「何人か人手を割いて探しているが、拘留していたわけでもないからそんなには」
「拘留してないって言っても、あの状態のシャルを野放しにしておいたら何しでかすことか!」
「シャルがミカエル様以外の誰かに危害を及ぼすとは思えないが」
「わっかんないわね! そのミカエル様のために何するかわかんないから怖いんじゃない!」
持っていた書類を全部のんきなそいつの顔にぶちまけて、アリエルは走った。むろんシャルを探しに。どこに行ったのだろう。どこにいくにしても、手ぶらではどこにも行けまい。シャルの専用室には何もないので、共用のほうを覗いてみる。
シャル本人がいないのは予想済みだが、なくなっているものがないかどうか、デスクの中や下を調べる。仕事に使うもの以外には、飴だの、チョコだの薬など口に放り込むもの。ほかはペン類、メモ帳、ボイスチェンジャー(体格に合わない声質を気にしているのだ)、予備の口紅、伊達眼鏡、使用期限の切れていそうなカラーコンタクト。
アリエルが知っているうちで、あれがない、というようなものはない。とりたてて言えば、エネルギー補給用の結晶石がないが元々シャルはあれから養分をとらない。
シャルの家に向かう。仕事を放棄することになるがかまうものか。バービエルだって許してくれるだろう。そう願う。ラファエルとともにいたと疑われてはシャレにならないが、ラファエルは出かけているはずだから大丈夫。
職場の近場、主に中から上流の天使が住まう住宅街。シャルはあれでいて実は位的には高官だから住まいも良い……と思えばそれは違って、一人で住むのに本人の手が行き届く分の広さの家しか所有していない。望めば聖巫女などの世話係もひとりかふたり呼べるだろうが、彼女は面倒をみるのは好きだがみられるのは好まないので一人で、自分のことは全て自分でして生活している。
(とか言っちゃって、全然別のことでは思いっきり人に面倒かけるんだから! 全然自覚はないんでしょうけど!)
呼び鈴を鳴らしてもでない。二度、三度鳴らしてもでない。玄関のノブをそっと回してみる。鍵がかかっていなかった。一息いれて覚悟を決め、入ってみる。
想像以上に、悲惨なことになっていた。
泥棒が入ったのではあるまい――この地区には、いるはずがない。一度帰ってきてから荒らしたのか、強制休養を命じられている最中に暴れたのか。どっちでも結果は変わらない。
この部屋に、シャルの手製の食事に誘われて遊びに来たことはある。その時は散らかってる部分とそうでない部分のある、メリハリ適度に片づいた部屋だった。
現在。テーブルもイスもひっくり返って足が折れ、チェストはあちこち欠けたりへこんだり、ガラスというというガラスは割れて、壁紙も引き裂かれて、頭でも打ち付けたのか爪が剥げるまで掻きむしったのか、数多の血の痕。殴って開けたらしき穴は数える気にもならない。クローゼットの扉は留め金が外れて中にめり込んでいる。
水音がしたので行ってみたら、シャワーがつけっぱなしだった。
止めた。眩暈がした。
キッチンは、朧気な記憶の姿をとどめていてくれた。
そこにはいい匂いのするごちそうが用意してある。
大皿に作られたジャガイモグラタンのミートソースがけや、新鮮なものでしか作れない色鮮やかなアボカドディップを添えたサラダや、ほどよい火加減のオーブンでほどよい油を使って丸焼きにした皮の光るターキーや、味をつけて炊き込まれたライス、小さくちぎりやすいふわふわのパン、ボリュームたっぷりのホールケーキ……。
まだ温かい。
脱走してから帰ってきて、作ったのだろう。一体なんでこんなことを。
シャルを、家の隅々まで探してみた。寝室に、完成品や、作りかけの、シャルが着るには小さすぎる可愛らしい服が散乱する。
念のため、家の周囲も時間をかけて探し回ったが、いない。
最悪が頭によぎった。覚悟を決めて、ニュースの回線を開いた。それらしき情報はない。ほっとしたのか拍子抜けしたのか、自分でも判らないけれどとりあえずよかった。
自分で探す以上にアリエルにできることはない。誰彼に命令して動員するような権限は持っていないのだ。戻ってバービエルやフィリジエルに相談しよう。こっそり戻った。咎めるものはいなかった。
「フィル?」
「どうぞ」
上司よりも心安い友人をまず尋ねた。叩扉して、硬い返事。
「何してるの?」
「わかんない?」
フィルは着替えをしている。黒を基調とするその服は、力天使の戦闘服。襟から頭を出して、髪をふる。ベルトをきつく締め、パックを腰に装備する。上着を留める。
「わかんないって……わかんないわよ。戦争じゃないし、訓練でもないのになんでそんな格好」
「違うよ。シャルだよ」
「シャル?」
フィリジエルは厳しい眼差しで片手を広げた。
「何年友達付き合いしてるのさ、アリエル。シャル、家にいなかったんでしょ? なら、行くつもりだよ。絶対だ」
「いくつもりって……まさか!」
真っ直ぐアリエルを見据えて頷いた。
「白い部屋へ」
ミカエルは普通だった。機嫌悪いかな、と思っていたがはじけていないだけで、まあまあ普通のミカエルだ。元気がない風でもないしほんとうに普通だ。
それがかえって変な気がしないでもない。普通すぎる。概ね、普通で括れないのがミカエルなのに。というとこの状態の彼は変ということになるが、そう変かといえば、別に変ではない。
表現が困難な状態。だから、どう考えてみても結局は変のほうなのだろう。変に普通だ。
「で、まあそういうわけだから。彼女の心情もわかんないわけじゃねーし、ミカちゃんになんかしようって気があったでも実際されたってわけでもねーし、謹慎はさせたけど公的にはお咎めはなしってことにしといたから。いいね?」
二人の少女のミカエルへの想いがどうのこうのは、野郎二人でする会話ではなかったので、あとミカエルにそんな話しをしても混乱させるだけだから伏せて、シャルの
目的と理由についてだけざっと説明した。
どこまで理解したのか、ミカエルは意外にもシャルへの怒りもみせず、ただ興味なさそうに聞いていた。その場で喧嘩を買わなかったのだから今更なのかもしれないが。
「ああ」
これもまた気のない返事である。ソファに片胡座をかき、逆足をぐらぐらさせる。嘆息して、いかにもうんざりする。
「なーんであんなガキにみんなしてぎゃあぎゃあ騒ぐんだかなァ」
おや? ラファエルは片眉をあげる。
「俺んトコの奴らもあのガキどーしたこーしたってやたらうるせーよ」
「そりゃ、好かれてたからでしょ。ミカちゃんも気に入ってたんじゃないの?」
「俺が?」
皮肉っぽい顔を作る。
「ま、嫌なガキじゃなかったけどな」
馬鹿だということは知っていたが、何を考えてるんだろうなこいつは。冷めた気分でミカエルを眺める。スーパーワガママで俺様で自分勝手で自己中心的で嫌なことなんか一切自分からしようとなんぞしやしないミカエルが、長期間に渡って誰かと、それも女の子と暮らして、出た言葉がなんと「嫌なガキじゃない」。
ラファエルにすらよくわからんレベルで気に入っていたに決まってる。
素性不明で記憶喪失、境界付近を襤褸雑巾の如くさまよい歩いていた規格外の怪しい少女。そんなのがミカエルの逆鱗に少しでも触れようものなら、即消し炭として生まれ変わっていたに違いないのに、どこ行くにも一緒だったとか、手を繋いでいたとか、下界でデートしたとか、膝枕で寝ていたとか、抱き合ってたとか、キスをしたとか、どんどん誰かの妄想が混じっていくのがわかる無責任な噂とはいえ、情報は集めるほど良好関係を示すものばかり。もし鵜呑みにしたら九十九パーセントカップルが成立している。話し半分どころか何十分の一として聞いておくことにして帰納するに
『仲良くやっていて周りもその様に見たかった』が結論として相応しいのだろう。
ミカエルの性格なんてものはラファエルがよく知っている。だからこそそこで齟齬が起きるのだ。ミカエルなら、そんなに気に入っている子を引き渡せなどと言われたら、ふざけんじゃねえと一蹴する。それがたとえ『白い部屋』のような物騒な施設でなくても、自分のものを横取りさせるような真似はすまい。
不仲の原因とバービエルらが考えている裸事件だが、それもおかしい。大体、裸を見て見られして怒るのは普通女の子のほうだろう。なんでミカエルが怒るんだ。なんでミカエルが怒って女の子が怒らせてしまったと泣くんだ。逆だろ。
ミカエルは、怒ったのではなく、動揺したのだとしたら? ……だとしたら。もしかして? これは? うーん。そっちの路線で考えると説明できなくもない。むしろすっきりしてしまう。なにせ、相手は女の子なのだ。
いや、でもこの馬鹿のことだし。
目の前にいるし、直接問い質せば済むのだが、どう聞いたらいいのかわからない。正確には『本人が理解して答えを出すにはどう聞いてやればいいのかわからない』。言い切ってもいいが、どっちにしろ本人に自覚は絶対ないのでストレートに聞いてもまず無駄だ。
困ったミカちゃんだ。
ふと、肌に空気が触れて、周囲に視線をまわす。
ミカエルはよくこんなところで暮らしていられるなあと思う。
直に会ったことはないが、写真は見せてもらった。長い金髪で青い目の小さな美人さん。目覚めるほんのすこし前まで、ここで、ミカエルとともに暮らしていた子。
この家には、まだ、彼女の匂いが残っている。
第三次天地大戦がらみの騒動が起きる前は、そう頻繁にでもないが遊びに来ていた。その時とは明らかに異質で、けれど悪くない、優しい空気がそこらじゅうに漂っている。なんだか、何かが無性に懐かしくなる、居心地のいい匂いがする。
『こんにちは、ラファエルさま』
聞いたこともない声でそう言いながら、どこかの角からお茶でも持って今にも微笑みながらでてきそうだ。
本当に、ここにいたのだ。
いい子だったんだろう。……過去形にしてはまずいか。
『少なくともルシアのほうはラブラブでしたよ。理由は知りませんけど』
女と間違えそうな顔をしたフィリジエルは、半眼で言っていた。
『いまだって恨んでなんかいないです。たぶん、ちっともね。そのくらい、大好きでしたよ』
この匂いひとつとっても、彼女がどれだけミカエルを想っていたかわかる。波長を合わせれば言葉で聞こえてきそうだ。
愛している、と。
「ねえ、ミカちゃん」
「んー?」
「どうして最高会の奴らなんかに渡したの?」
「べっつに、細けぇ理由なんかねーよ。逆らう理由だってないだろが」
「ミカちゃんがいらねーなら俺にくれれば良かったのに」
物凄く微細な反応を示したのを、ラファエルは見逃さなかった。押す。
「写真見たよ。かなり可愛い子じゃない。育てればジブリールくらい綺麗な子になっただろうに、もったいない」
ミカエルはラファエルを見て数秒口を開けたまま言葉を探して、
「このエロ男、一回死にかけてもまだ女に執着してんのか」
「いやー? でもあの子育てるのは楽しそうだなって」
「……そうだ、テメー寝てたじゃねーか」
指さしてくるのに、もう一押し。
「だから、俺のためにとっといてくれてもよかったんじゃないのって」
うろたえるというほどうろたえるでもなく、無反応と呼べるほど無関心を装いきれてもいない。長い付き合いだが、こんな微妙な反応をするミカエルの分析はしたことがない。この分だと、予想は当たっているのかもしれない。
口の端を歪め髪を片手で掻いて、ミカエルはこれみよがしに両足をテーブルにどかっと上げる。
「あーっ! もうどうでもいーじゃねーか、過ぎたことなんだからよ! どうせもう死んじまってるかノーミソにされてるかそれに近いことになってんだ。今更ンなこと言ったってしょうがねーじゃねーか!」
けっ、と吐き捨てて、腕を組んでそっぽを向く。
なるほど。ラファエルは納得した。
「ミーカちゃん」
「その呼び方やめろ」
「ミカちゃんがそうして欲しかったら、俺、生き返らせてあげてもいいよ」
ミカエルの視線が、ラファエルに注がれる。
「さすがに脳だけになってたら消耗も激しいからまた寝るはめになるかもしんねーけど。うちの副官や他の部下だち何人かにも気に入られてる子だったらしいし。それでミカちゃんがどうしてもって言うんだったら、やってもいい」
ミカエルが口を開こうとして、
閉めきっていないドアの向こうで、がた、と震えるような物音がした。
「誰だ」
ラファエルに気をとられていたとはいえ、自宅に侵入されて気づかなかったのは迂闊だった。元素天使に暗殺は利かないので寝首をかきにこられようと身の危険もないが、だがここはミカエルの家だ。誰かが無断で存在するのは不愉快だ。
「……失礼しました。ラファエル様がこちらだと聞き、呼び鈴が壊れていましたので、火急の用件につき勝手ながら入りらせて頂きました」
ドアの影から出てきたのは、赤毛で、長身の女。戦闘服に身を包み、脇に力天使軍服の帽子を携えた、規律正しい軍人らしい立ち居。あの女だ、とすぐ判った。頬っぺたに貼ってあった絆創膏はなく、かわりに四本の縦線が深く赤く走っている。腫れぼったい目は充血してどんより濁っているが、その奥にある光までは濁っていない。
「シャル」
ラファエルが驚いたように名を呼ぶ。シャル。そういう名前。
「急に申し訳ございません。お時間よろしいでしょうか」
ラファエルはミカエルを見て、戻す。
「ああ、いいけど」
シャルは靴を鳴らしてラファエルの傍まで来て、踵を揃え、敬礼し、迷いもなく言った。
「力天使ナンバー十七シャル、本日を持ちまして力天使の任を辞させて頂きます」
それに引き替え、ラファエルは一拍ずれて、不可解そうに、
「はぁ?」
片膝をつき、ラファエルの前のテーブルに持っていたものをおいてゆく。帽子とカードと認識票。
「階級章とIDカード、身分証をお返しいたします。辞表は書いている暇がなかったので、口頭で。一身上の都合です」
「アルバイトじゃあるまいし」
テーブルから帽子を拾って、馬鹿馬鹿しそうに言う。ラファエルに去る者を引き留めるような殊勝な感覚は一部の例外を除いてない。シャルはその例外に到底含まれないから、対応は素っ気ない。だがナンバー十七は決して低くない地位だ。
「言わずに隊を抜けることで、せめても力天使の名に傷をつけぬ所存です」
「何をする気だ」
「それは、聞かない方がよろしいかと」
恭しく頭を垂れるシャルは、目を細めて口だけで軽く微笑んだ。
「まだ辞官を認めていない。上官命令だ。言え」
静かに垂れた首をあげ、無表情になり、告げる。
「あたしは今日、最高会に反逆して、死にます」
虚ろ。何もない。ただ、『それ』だけしかない。他には何もない。そういう目だ。何をする気なのか、ミカエルにも判った。ラファエルも察しがついただろう。片手をあげ、へらっとミカエルに笑い、言葉に出さずに呆れている。
「生きて帰るつもりはありません。目的が達成できるとも思いません。けれど、あの子はあたしの友人です。そして」
ミカエルに顔を向けようとして、途中でやめる。
「あの子をミカエル様に預けたのは、あたしです。そのためにあの子が死なねばならないなら、あたしもあの子のためには死んであげなければ。私情で隊に迷惑をかけたくはありません」
立ち上がる。体ごとミカエルに向き直り、礼。
「先日はご無礼仕りました。どうかお許し下さい。もし生きて帰るようなことがあればこの羽、さしあげます。捥ぐなり斬るなり、御意に。
……もし許されるなら、ひとつ、問いかけを」
平坦に言って、顔をあげる。目をしばたたいて、泣くのを堪えるように口を引く。開きかけて、やめて、唇を噛んで、下を向く。
「貴方はっ、貴方は、どうしてあの子を裏切ったのですか? たとえ全世界が貴方の敵に回っても、何をも恐れず貴方の横で笑っていたはずのあの子を、なぜ裏切ったのですか?」
答えなど、毛頭聞く気はないのだろう。言うがいなや踵を返し、入ってきたドアに向かう。ノブを手にする。
「もっと早く覚悟を決めれば良かった……きっと、もう遅いのでしょうけど。
貴方が捨てたもの、あたしは拾いに行きます。それでは」
ドアが閉まった。
一見、なんの感慨もなさそうに、ミカエルはシャルを見送った。真正面から喧嘩を売られたというのに、わかっているのかいないのか、不思議なほどに無表情で。
シャルもシャルで、いい度胸だ。身分証を返しに来るついで、ミカエルに一撃入れに来たのだ。殺されてもよかったのだろう。スケジュールに死ぬ予定を入れて、恐ろしいものなどない。
組んだ膝のうえに肘を置いて、頬杖をつく。
「アホのミカちゃんにもわかるように説明するとね」
反論がなかったので続ける。
「いま、『助け出せたらあの子はあたしのもんだ。おまえにはやらん』って、言われたんだよ」
返事はない。ミカエルは動かない。覗き込む。
考え込んでいる、葛藤している、どちらにも見えない。はかりかねた。
部屋の中には依然変わらず彼女の空気がいるし、やっぱり変わらず愛してる、愛してる、愛してる、と飽きずに繰り返し、面白がるようにクスクス笑っている。フィリジエルの言うとおり、彼女はミカエルのことを恨んではいないだろう。迎えに行けば純粋に喜んで笑うだけだろう。もう一度傍にいろと言われたら。
さて、どうすんの、ミカちゃん。
彼女を渡したことにどんな気分が纏わっていたかはおいておくとしても、あそこまで堂々と喧嘩を売られて買わないのはミカエルらしくない。らしくないとしても、行きたくないなら行かないのだろうが。黙って座っているところを見ると、行かないのか。
今までの様子を顧みるに、全然行きたくない、どうでもいい、の感じではないのだが。
「いいの? ……とられちゃうよ?」
ミカちゃんが行かないのなら俺が行ってもいいかもしれない。ちらり脳裏に浮かべつつ、自分で行かないほどのものをプレゼントされても迷惑か。しかし部下達は喜ぶだろう。バービエルが望むのなら、特別に力天使の下で働かせてもいい。ブランクはあってもそのくらいの権力はある。そうとしても、現在の最高会がどうなってるのか実情をすべて把握しきっていないから、下手に逆らうのは得策じゃない。
どうしようかな、と、シャルのおいていった帽子を指で回しながら思索する。ミカエルが席を立って出て行った。ちょっと席を外した、くらいの普通さで。
あんまり普通にいなくなったので、数秒何しに行ったのか抜けたが。
笑う。
「シャルには悪いけど」ソファの背に体重をかける。「俺はミカちゃんの味方」
そして、ラファエルも立ち上がる。
*
決意を秘めて進む女の背中を、ミカエルは手加減なく蹴飛ばした。
「なっ……」
地面に転がる女に向けたその一瞥は、抗議を飲み込ませるのに充分だった。器が違う。強さが違う。位が違う。何もかも違う。違い、全てにおいて彼が上。
どんなに足掻いても、たかが一介の軍人で敵うはずがなかった。
相手にするものは炎の天使ミカエル。天軍を率いる光の副王なのだから。
彼は言った。
「てめぇは、すっこんでろ」
*
能天使たちの一部は、訓練室で模擬戦を行っていた。模擬戦と言っても刀剣類は刃を落としたもの、銃は練習用で、体を動かす遊びのようなものである。ここのところ出かけないので、暇なのだ。
そこに、一人走ってやってきた。
「おい! 出撃だ! 暇な奴ァ来い!」
今の今まで組み合っていたものも、撃ち合っていたものも、身を潜めていたものも、動きを止め、声の主を見やる。
「出撃なのに暇な奴っちゃ?」
一番近い一人が聞く。
「ミカエル様からのお達しだ。行き先ァ境界でも悪魔狩りでもねェぞ、」
それを告げると、能天使たちの間に笑いが起きた。
「ヘッドァ、正気かぁ?」そんな声が笑い混じりに囁かれる。
「いいんじゃねぇか? 狂ってても。楽しくなりそうだ」
また笑い声。
「そうだな」
ボケッと立っていた、片目をバンダナで隠した男が、ダッシュして、ゴーグルをつけた黒い銃を持った男に体当たりして、その銃を奪う。
「痛って!」
抜けたコードの衝撃に不平を訴えるのに、にやりと笑む。
「賭けは続行だ」
ゴーグルを外し、ち、と舌打ちをしつつ、彼は素直に認めて賭け草を返却した。
*
力天使たちはお茶飲む。
部屋の隅で、ひどく泣いているのと、それを慰めているのがいるが、残りのものは優雅にお茶を飲む。
「なるようになったって、とこですかね」
居合わせた中で最も位の低いフィリジエルが戦闘服に身を包んだまま給仕役。大きめで、中に蒸らした紅茶がたっぷり詰まったティーポットから上官らのカップに順序よく注いでいく。
「そうなんでしょうけど」
それぞれ好みの砂糖とミルクを入れていくのはバービエル。
「可哀想に。優しくて、いい子なのに、なぜ泣かなくてはならないんだろう」
カップをソーサーごと受け取って、一口。部屋の隅を見やり、ペリエル。
「ペリエル様に言わせれば誰だって優しくていい子じゃないですか」
「ふむ、どうかな。シャルは友達想いのいい子だ。アリエルはそれとない気配りをしてくれるいい子だ。フィルは実は勇敢なところもあるいい子だし、ああバービエルはどんなところも優れたいい子だ。おかしいね、私の周りにはいい子しかいないようだ」
「……僕は、あなたが上官で良かったと思っていますよ。本当にね」
フィリジエルは着席して自分の分のカップに口をつける。
「なんでよぅ、なんでよぅ……なん、なんで、あたしが行くっ、の、にぃ、なんでよう、あのひと、が、なんでぇっ……!」
ラファエルに突っ返された帽子を不自然に深く被り、座り込んで細く悲鳴をあげるように泣いているシャルの肩をアリエルが抱いて、あやすように揺らす。
「しょうがないでしょぉー、昔からどんな絵本でも、囚われのお姫さまを助け出すのは王子様のやくめじゃない」
「マっ、マッチポンプする王子様が、どこにいるのよ!」
「……それはそれで、新しい物語、ね」
ひあうぅ、と、顔を覆って、シャルは泣く。
力天使たちは無視してお茶を飲む。
*
その日、政府研究機関、白い部屋は壊滅した。
ガムを噛みながらチョコレートを食べて溶かしつつ不味いコーヒーを飲む、非常に不健康な趣味を楽しんでいたオペレーターが緊急に受けた通信は次のような内容であった。
「今からそちらさんぶっ潰しまーす♪ ちなみに決定事項なんで交渉なんかしても無駄だよん、受け付けません。抵抗しなきゃ殺しゃしないから適当に逃げてくれ。建物の倒壊や余波に巻き込まれても責任とれねーんでそこんとこよろしくゥ!」
酒でもやって浮かれきったような物言い。いかなる返事もまたずに一方的に切れた。オペレーターは悪戯を考えたが、戦闘用メルカバの領空侵入警報が頭に痛いほど鳴り響き、モニターもその事実を裏付けすれば疑いの余地はない。
白い部屋は混乱した。メルカバは能天使のもの。なぜ境界警備隊の能天使が攻撃するのか。能天使長ミカエルは一体何をしているのか……疑問と憶測が飛び交う。侵犯者たちは一切交信を受け付けなかった。
最高会への連絡も失念されるほどに騒乱する職員達をよそに、宣言からきっかり十五分後、能天使たちの襲撃は始まった。
警備員は小勢のテロリストの侵入には有効でも、純粋な破壊を目的とした軍隊を相手取って戦える装備も能力も持ちあわせていない。
職員達は右往左往、命の大事なものは我先に逃げ出した。研究者たちは大事な研究資料の持ち出しを望んだが、協力する者はいない。
「なあ! この戦闘費用誰が払うんだ?」
「ひゃははは、みんなで仲良く分割して払いましょー!」
「うわあ、戦って金払うのかよ! 割にあわねえなあ!」
「世の中は世知辛ェんだ、たまにはそんなこともあっていいだろ!」
「そのぶん派手に暴れたろーぜ!」
「だな!」
先ごろ、気落ちしていたチームは愉快に笑って破壊を楽しむ。
……能天使長ミカエルは一人、破壊には参加せずに建物の中を歩いていた。時折、重い音と揺れが伝わってくる。好きにしていいと言われたからには、部下達は根こそぎ壊すつもりのようだった。
途中、逃げようとしていたある程度全体を把握していそうな職員を捕まえる。なんのつもりなのかなにが目的なのかとどもりながら喚き立てるのを何発か殴って黙らせる。
問う。
「あれどこやった?」
「あ、あ、アレ?」
「あれだよ、俺のトコから持ってった奴」
「あ……あ……!」
びくびく震える指先でミカエルをさす。
「ま、ままさか、それ、それっで!? なんで……! あれはあなただってっ」
「うるせーな。どうでもいいから渡して、気が変わったから取り返しに来ただけだ」
「そんな……っ!」
苛々したのでもう一発殴った。気を失ってしまったので、それは諦めて放置し、次を探す。歩いていれば職員らしいのには何度か遭遇したが、姿を見た途端に逃げてしまう。走って追いかけるのもどことなく億劫で、路はわからないが足の赴くままに進む。
どぉん、どぉん、という爆発音や、どこかが崩れる音が聞こえる。遠慮会釈なく派手にやっているようだ。まさかミカエルが巻き込まれるはずもないが……。通信機をとりだそうとして、やめる。天井からパラパラと落ちてくるものはあるが、まだ平気だろう。
人影が見えなくなってややする。広く、実験体も多いなか、手がかりもなしに見つけるのは困難だ。自分で探ってもみるが、見つからない。アストラル力が遮断されているのだろうから、それはしかたがない。
長い廊下。分岐する通路と様々な扉。ある通路を理由もなく曲がる。
男が、腕を組んで壁に寄りかかっていた。足を止める。
職員の制服と、斜めに被った帽子。瞑っていた目を開ける。
「やぁっと、来たかよ」
ミカエルが声を出す前に、口を利く。
「はい、ビンゴ。ゴールまであと少し」
と、すたすた奥へ歩きだす。訝しんでいると、振り返る。
「あの女の子だろ? 来いよ、こっちだ」
「てめぇ……」
再び歩きだし、今度は待たない。
「なんで案内するのかって? そんなんあんたには関係ないのさ。どうせここも終わりだ。なんかあれば俺はあんたに脅されたって言うから、もしか心配してくれてんなら大丈夫」
面白くもなさそうにそう言いながら、前を行く。一つの扉の前で止まり、腰からキーを出して、ロックを解除する。
そうして、彼は扉を開けずにミカエルの横を通って来た道を戻る。十数歩離れたところで、体半分向き直った。腕を伸ばして指さす。
「いいか、俺は間違えてない。あんたの目的の女の子の部屋はそこだ。自分で開けろ。俺は嫌だ。あんたは自分が何をしたのか知るべきだ」
……普段なら、下級天使だろうが上流天使だろうがそんな物言いは断じて許さない。
けれど、ミカエルの脳はここへ来る前からずっと、どこかが停まってしまっていて、たとえなんと言われても感情は波立たない。
静かだ。色々な音が遠くなってしまった。
扉がある。開ければ、いる。
死んでしまっているか、脳にされているか、どちらかを想像していた。でも、部屋があってそこにいさせられているのなら、どちらでもない。
どちらでも、ない。
扉に手をかける。開ければ、いる。
彼女は一体自分に何と言うだろう。それを聞くのは少し怖いような気がした。
怖い? 恐れるものなどない。
恐れることなどない。
扉を開ける。
暗かった。中央に、椅子にこしかけた黒い人影。はっきりとは見えない。
「ル……」
シア。
半分は口の中で消えた。でも判るだろう。彼女なら。ミカエルが、自分の名を呼んだのだと。
人影は返事をしなかった。椅子から立ち上がりもしない。微動だにしない。
胸に、重みが落ちる。
一歩踏み入る。逆光になってミカエルの姿が見えないのかもしれない。見えなくても彼女ならわかりそうなものだが、わからないのかもしれない。
だから、俺だ、と言ってやろうとした。
不意に、暗闇に目が慣れて、姿が見えた。彼女はちゃんとミカエルを見ていた。
無惨だった。
俺は何をしたんだ?
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