おいしいものをおなかいっぱい食べよう。
ほっぺたがおちるくらい、舌がとろけるくらいおいしいごちそうをたくさんつくるわ。
食べ終わったらお茶をいれて、すこしはなしをしよう。
それから一緒に走りまわってうたをうたって、声をあげてわらいあおう。
はながたくさん咲いたいい匂いのする庭で。
太陽がキラキラしてるそらのしたで。
キレイな色のめでわらってよ。
それだけでいいの。
あたしには充分なの。
あたしにはそれだけで充分だったのよ。
*
「『銀灰色で向かって右側に黒メッシュの髪、性別は女。セキュリティが作動しているなかで壁抜けができる』。
ほぉぅ……それはそれは」
菫の瞳をうろんげにまたたかせ、右手の机に片肘を立ててペリエルは言った。
「……ところで、こんなもの精神科のうちに回されてもこまると思わないか、フィリジエル?」
「思います」
彼に相対し立ったまま、フィリジエルは即座にうなずく。
「しかもこんなに少ない情報でどうしろというのだろう
、警備部は。こんなもの、作っているいとまがあるのなら、まだあたりにいるかもしれぬことを考慮して索走こそすべきに」
ぺらり、と、ついさっき無断侵入してきた者の特徴を書いたプリントを手から離す。床に舞い落ちた紙をフィリジエルは拾ってファイルに挟んだ。
「その、侵入者の目的もよくわかりませんしね。データや患者を検査しても異常はなかったみたいです。なにがあったかと言えば、その直後にラファエル様がお目覚めになられたことくらいで」
「侵入者は目覚めの妖精だったのかな? だったらむしろ喜ぶべきことじゃないかね?」
「……そーですね」
「私が疑われてはいないだろうか」
「ゼロではないでしょう」
「もし私が拘留されたら、304号室の患者は誰が止めればいい? 君に後を頼めるか?」
「善処します」
「他には?」
「ありません」
「では下がりなさい」
フィリジエルは長いまつげにふちどられた両目を半分下げ、ふっくらした唇をつきだすようにして浅く礼をし後ろを向きかけた。
「そういえば、シャルはどうしている?」
かけられた声に、振り向き直す。
そして、お手上げ、のジェスチャーで答えた。
「昨日も出勤してきて、アリエルに怒られてました。バービエル様にも。今日は家で休んでいると思います」
「そうか……可哀想に」
ペリエルは人差し指を曲げて口元にやり、物憂げにため息をついた。彼はその状態のままでしばし間をもたせ、考え事をしていた。フィリジエルがそろそろ去ろうかと思った頃やっと口を開き、
「ふむ。これから君はどうするつもりだ?」
と、視線を上げる。
「はぁ。外来の診察があるんで、そっちいきますけど」
「同行しよう」
椅子から腰を上げ、
「予感がするよ」
顎を上向きに、目を閉じてため息をつく。
「はあ」
上目づかいに見上げるフィリジエルの視線を無視して続ける。
「しかも悪い予感だ。私のこの類の予感ははずれたことがない」
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁりぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇるぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!」
血相を変え、扉をぶち破る勢いで突入してきたフィリジエルに、アリエルはカップを手にしたまま、飲み込み損ねたクッキーにむせた。
「なっ、どっ、けほっ!
どうしたの?」
フィリジエルは隠れ飛ぶ蚊を探すようにしてあたりをぐるぐる見まわし、
「シャルはっ!?」
「いないわよ? もう今日は絶対に来るなって、朝も念を押しにわざわざ家まで行ってきたし」
「ホントにいないね!?」
ずいぃっと顔を寄せて、確認する。
「ええ……大丈夫だとおもうけど。来てたらここに顔出すはずだから」
「よかったぁ……」
へたん、と脱力して座り込む。
「よかった、よかった、ほんとーによかった」
「どうしたのよ? なにがあったの?」
「あー……、あのね、ホント、もうホント、もう、ね。うん」
「なんなの」
大きく息を吸って、吐いた。
「ミカエル様が来てるんだ」
「…………。
来るなって言ってよかった……」
「ホントだよ、もう。もしシャルがミカエル様に出くわしちゃったら、どうなる?」
ほぼ涙目でいうフィリジエルの言に、アリエルの目にはその状況がまざまざと浮かぶ。
「血の海ね」
フィリジエルは座ったまま頭を両手でこね回し、セットしてあった髪をぐしゃぐしゃにする。顎にしわを寄せてくちびるを突き出す。
「ミカエル様もさー、あんなことしたあとで普通に来ないで欲しいよ。まあさ、自分のしたことで誰がどう思ってるかなんて、考えないし、その必要も、あの方にはないんだろうけどさ」
アリエルはその気持ちがよくわかる。自分達にはなにも言えないから。天使のヒエラルキーは絶対だ。
だからといって簡単に割り切れるものではない。
「ラファエル様が目覚めて、ミカエル様が来るのは当然だけど、ちょうどその日にシャルが休んでたのは、なんかもう僥倖を超えて奇跡で構わないよねこれは」
「ええすごくそう思うわ。シャルがこの場にいたらどうしたらいいのかわからないもの」
「僕も見当つかないね。いざとなったら全身麻酔でも打つしかなかったかも」
「そうでもしなければ止められないわね。あの子は目一杯キてると鎮静剤を二倍打っても動けるから」
「げろげろ。もし来てたら僕はカエルになったね。寝たふりしているうちに何もかもすんでたらないいよね。
今日はいいとしても、これからどうしよう?」
「しばらくは食い止めるわ。家にいさせておけばまず大丈夫」
「でもシャルがいなくて平気なの? 科のほうは」
「どうしようもないわ。シャル一人いなくてダメになるほうがおかしいのよ、気にしてられない」
「ミカエル様しょっちゅう来るかな? 来てもせめてシャルに知られないうちに帰ってくれるといいんだけど。今日はいつまでいるんだろ? 怖いから早く帰って欲しいな」
「……どこにいるの……?」
「ミカエル様? ラファエルさまの病室にいると思うよ。ナンバード専用の中でもいっとう重要な天使だけ使えるけどあんまり趣味の良くない部屋」
「……っフィル!」
「どうしたのアリエル? お見舞いにでもい……」
アリエルが背後を指差しているのに、フィリジエルの顔から血の気がひいていった。
恐る恐る、しゃくりあげたいような様子で、振り返る。
頭や両腕、指先に到るまで包帯
を巻いて。生来赤い瞳だけでなく、白目さえ充血気味で。その目元は黒く色づいていて。下唇がにじんだように赤いのはけして紅をひいているからではない。服に隠されて見えなくとも、体中ところどころガーゼのツギを当てているのを二人は知っていた。
シャル。
「は、はは、シャ、シャル? 今日は、休みじゃなかったかな? い、いつ来たの?」
命の危険に晒されたとき、もう他に術がなく最後の抗いとして浮かべるまさにその笑顔で、フィリジエルは乾いた声で、話しかけた。
彼の思考はほとんど停止していた。残されたわずかな部分で思うのは。
次の句をどう並べればいいのか。
どうすれば最悪の予想――だが確実に到来する状況――を回避できるか。
とりあえずおかしなことでもしでかして殴られておこうか。そうしたら少しは冷静になってくれるかもしれない!
アリエルは、顔を引きつらせたまま頭は動かさず、刺激しないようゆっくり手探りで机の上をまさぐった。
シャルは、その光なく空虚なのになお鮮やかな赤い瞳を寸分たりとも動かすことなく。
立ち尽くしていた。
黙ったまま。
部屋はあまり趣味がいいとはいえなかった。
天井も床も壁もカーテンも掛け布もシーツもすべて真っ白。誰が描いたのか……芸術なのか落書きなのか、統計をとって一人でも落書きだと答えたら即刻捨ててしまいたいような絵画かかかっているし、病室なのに花束がないし、それに、寒い。
最後のはコールドスリープの後遺症のせいかもしれないが、とにかくこの部屋は趣味が良くない。一度も使ったことがなかったから知らなかった。復帰したら変えさせよう。
きしむ感の否めない体は指一本動かすのも億劫だ。だが親友の手前横になっているのもきまりが悪くて半身を起こしていた。
「もしかして、結構長い間寝てたかな?」
「五年かそこら」
短く返ってきた返答、その声がなんだかとても懐かしくて、ラファエルはいい気分で微笑んだ。
五年か。思った以上に短い眠りだった。何十年、下手したら数百年目覚められないのは覚悟の上だったから。
コールドスリープに入ってからのことはまだ聞けていない。バービエルは気遣ってもうすこし回復してから、と言ってくれたが、遠慮したのだろう。
聞かなくても、ミカエルが目の前にいること、バービエルの怪我が完治して不自由なさそうなこと、窓の外がいい天気なことを見れば、なるようになったのだと思う。
けれど、どのような決着のつきかただったのか、ロシエルやアダム・カダモン、創世神はどうなったのか、救世使や紗羅のこと、は、やはり聞いておきたい……
のだが。
場の雰囲気が、それこそごまかしに苦笑いするしかないような。
会話に乏しい。
沈黙が重い。
天界でもっとも信頼する二人がいるというのに、居心地が悪いとは。
まず、ミカエルがミカエルしていない。
饒舌にあのときのことを喋ってくれるものだと思っていたのに、黙ったままで、妙に機嫌が悪い。眠っている間に何があったのか。彼を、ミカエルを変えるような出来事がこの五年で――もしくは神性界であったのか。目覚めたばかり、動きのにぶい思考に段々不安が広がってくる。
そして、バービエルも。起きたばかりのころは笑顔でいたのに。
「バービエル」
「はい」
声をかけられると、彼女は副官らしくいずまいを正し、返事をする。
「お茶淹れてくれる? ミカちゃんの分も」
「あ……すみません。すぐ」
言われて初めて気づいたように、バービエルが急いで出て行こうとして突如。
激しく。
激昂する怒声と喚声と大きな空気の歪みとが、部屋の外側の壁を叩いた。入口の扉が開く。叫ぶ声。
「離せぇぇぇッ!」
長身の女だった。数人の男女の入り混じった者たちに四肢を捕えられて。赤いはねた髪を振り乱して。彼らを引きずってなお前へ進もうとする。
部屋の中のただ一人に向かい刺しえぐるような眼を飛ばす。
「よくも!」
叫ぶと同時に彼女の体全体に電撃が迸り、動きを制止していた者たちが弾き跳ばされた。自由になった手を腰元にまわす。が、その腕は後ろから抱いて掴まれた。
「ダメって言ってるでしょ!?」
「離せアリエル!」
「駄目――――――っ!」
言う間にもちなおした他の者達が一人一本ずつの肢を掴んで羽交い絞める。
いきなりのことに、あっけにとられていたバービエルがようやく声を上げた。
「シャル!?」
しかし拘束された体も煩げに、灼熱に燃える怒りを吐き出して首を振る。ラファエルの方を、正しくはその手前にいるミカエルを、憎悪、憤怒の溢れる視線で、口元を今にも泣き出しそうにさせながら、睨んだ。
「あなたは……っ! あなたはあたしの親友を何度奪えば気が済むのよ!」
五人の天使に身を捕らえられながら。なお必死に振り解いて前へ進もうとする。
「あの子たちが何したって言うのよ! ねえ!?」
再び右腕に電流が帯びる。掴んだアリエルはそれでも離すまいと増して力を込める。がしかしいったん下がり再度急激に上げられた電圧に飛ばされる。
その右腕は迷うことなく腰のナイフを抜く。それはなぜか逆手で持たれて――
振り上げた。
トッ
さかまく炎に水をかけるかのように。
一瞬あたりが静まった。
バービエルの放った手刀は正確にシャルの延髄を叩き、彼女の行動を止めた。
頽れる体を捕らえていた全員で床に押さえつけた。
「鎮静剤を!」
「あります!」
「縛れるものは!?」
「ここです!」
バービエルの張り上げる声に次々に反応の声がする。
「畜生……!」
シャルは、泣きながら、声を震わせながら、そこだけは自由になる首を動かし額を床に打ち付けた。それもすぐさま頭を抑えられる。
「男なんて……所詮女を犯すだけの生き物なのよ……!」
畜生、畜生。
はっきりと、場の全員に、その言葉は届いたけれど。
誰一人意味を問うことはなかった。
「申し訳ございません。ラファエル様……ミカエル様」
沈痛な面持ちで、バービエルは目を伏せたまま言った。
シャルが連れ去られたあとには、また静かな病室が戻ってきた。
「しかるべきを処置はいたしますので、あつかましいとは存じますがどうぞ、穏便に……」
「それはあとでいい。なんだったんだ? アレは」
問うと、バービエルは視線を下方に這わしてから、ミカエルを見た。
「……?」
つられて、ラファエルもミカエルを見る。ミカエルがどうもおかしいというのはラファエル自身よくわかっている。あんなことがあっても、何も言わない。ありえないことである。
ミカエルは冷めた表情でそっぽをむいていた。
「シャルは、あの……とても、『あの子』と仲が良くて……それで」
「『あの子』?」
聞き返すよりさきに、ミカエルが歩いて窓際によった。
「私も、聞かせていただきたいのです、ミカエル様。どうして」
バービエルは、いったん息を吸いなおして、
「あの子は、あんなにあなたを慕っていましたのに」
「……うるせえ」
窓が開け放たれ、入ってくる風にカーテンがたなびく。
その中、ミカエルは窓枠に足をかけて跳躍し、消えた。
数枚の羽が舞って床やラファエルのベッドに落ちる。
ラファエルは大きく嘆息した。
「ラファエル様」
「何があったのか全部話すんだ。俺が寝ている間に一体何があった?」
*
バービエルはそのままでよい、と言ったのだが、体裁が悪いので服を普段着に着替え(もちろんその間彼女には外に出てもらった)、テーブルに掛けて話を聞いた。
眠ってから、神性界で起きたこと、それからの天界の情勢。
少女とミカエルの出会い。
それに伴う力天使スタッフにおける少女の評判や、人となり、ミカエルへの想い。そんなことを、バービエルはときに躊躇いがちに、ときに懐かわしいように、語った。その語り口は段々と暗く、重くなっていき、バービエル自身話すことすら辛そうな表情で言った。
少女を巡る熾天使最高会の企みと、それに従ったミカエルのこと。
「何故かは、私にもわかりません。ミカエル様はきっと拒んで下さると、思っていましたのに」
バービエルも、少女のことを可愛がっていたのだろう。部下を死なせたときのような苦悶を持って、そう言った。
バービエル他何名かの力天使たちに愛され、世話を焼かれ、いっときミカエルの預かりになり、彼とともに生活をしていた少女。
少女の名は、ルナス・ルシア。
(また、ミカちゃんにしては随分と気に入っていたんだろうなぁ)
と、思う。言わずもがな、ミカエルは女性なんか大嫌いだ。香水の匂いが嫌だとかなんとか言いはするが、あれは「女」自体を嫌っている。女の、その持てる特有の何かを。ラファエルが、そうだったように。理由は違えども。
ラファエルは彼女たちを弄び優位に立つことで自分を守った。ミカエルは逆に徹底的に避け、忌み嫌い遠ざけた。身の回りの世話をする者がいなければ不便であろうと、半ば冗談もあったが、友情のために〈聖巫女を何度か遣わしたことがある。その日のうちに怒鳴り声つきで送り返されてきた。ミカエルは女性を避けて通っていた。
そのミカエルが、少女とはいえ、女の子、女性と一緒に暮らしていた。ラファエルには想像もつかないことであるが、バービエルが言うからには本当なのだろう。
(……本当かよ)
事実そうであったのだ、と聞かされてなお疑いたくなるが。
バービエルは、熾天使最高会に逆らってなおミカエルが彼女を守ると思いこんでいた。ミカエルは命令違反は恐れないが、特に理由(どんなに些細な理由でも)がないのに命令を無視することはない。そのくらい、ミカエルが彼女を気に入っていると周りにもわかる状態だったのだろう。どんな少女なのだろう。『白い部屋』に連れて行かれてさえなければ、ラファエルも会ってみたかった。
「それで」
促す。
「アレは何なわけ?」
アレ。シャルだ。
バービエルが一転苦渋の表情になる。頭が痛むように額を抑え、深くため息をついた。
「シャルは、ルナスと、とても仲が良かったんです」
「それはさっき聞いたよ。だからって、ミカちゃんに……位が上の天使に襲いかかるような子だっけ?」
シャル。軍人らしい軍人のしつけを受けて上下関係をようくたたき込まれた天使。ナンバーは昇進を受けていなければ十七。バービエルの直部下で、戦闘における働きと頭のきれはかなりのものだったと記憶している。平時は平時で臨機応変に日常生活を営む明るさと柔軟さも兼ね備えている。目つきは悪いが、面倒見もよいし、性格も悪くない。あれで少々純情なところもあるらしく、昔一回食事に誘ったら真っ青になって全力で断ってきた。特にタイプでもないので、それはそのままにしておいた。
友達を白い部屋に預けたとしても本人が何をしたわけじゃなし、刃物を手に飛びかかって行くような天使ではなかったように思うのだが。
バービエルは考えあぐるようにしつつ、
「随分、昔の話しに戻るのですが」
「はい、失礼します」
ペリエルの声。彼はにこにこと微笑みながら、右手にポット、左手にトレイを持ち壁をすり抜けて現れた。セキュリティが働いている時に壁抜けができるのは(やるのは)彼くらいのものだ。
「ラファエル様。ご気分はいかがでしょう」
「悪くない。……どうした?」
「シャルの処理が終わったので、一応ご報告を、と思いまして」
ペリエルは手にしたものをラファエルたちのテーブルに置いて、小さな映像機を出した。見ます? と返事もしていないのに勝手に操作して始める。まず流れたのは多くの人の姿と、ざわつきと、そこを一線飛び越すシャルの泣き叫ぶ声。手足を拘束され、それでも抵抗する意思を見せつける。周りの人間は一体となって、嫌がる彼女をコールドスリープのポッドに押し込み、蓋を閉めた。
中から叫ぶシャルの声が段々と小さくなっていく。そして映像が終わる。
シャルはずっとこう叫んでいた。
『死なせて! もう嫌よ! 生きてるのなんて嫌よ! 死なせてよ! 嫌よ!』
「……死なせてあげれば?」
半分以上、呆れた気持ちで見終わって、ラファエル。ペリエルがにこにこ微笑んだまま立っていて言った。
「彼女がああなった原因がミカエル様にある、とお聞きになってもそうおっしゃるのであれば私が手ずからバッサリやって参ります」
「…………」
バービエルを見ると、ペリエルの言うとおりであるらしい。
嘆息する。
「さっぱりわからない」
ペリエルが、持ってきたポットの中身をカップについで寄こす。それはどうも、プラムか何かの果実を蜂蜜につけ込んだ飲み物らしかった。甘くて、ほっとする味がする。アルコールでも含まれているのか、胃から体温が上がっていく感じがある。飲み慣れない味だが、なかなか美味しい。
「シャリオ、という天使を覚えていらっしゃいますか?」
「……? いいや、悪いけど」
「では、ユロラルドのことは?」
「ああ、第一次大戦のときにミカちゃんが……、……待って、なんか見えてきた」
「その通りです」
バービエルが、沈痛な面持ちで頷いた。
ペリエルは変わらずに微笑んでいる。
「シャリオは、我が隊から、能天使の医療補佐としてユロラルドに赴いていました」
「ミカちゃんが暴走してくれたお陰で全滅しちゃったっけね……。それが、シャルの?」
「はい。シャルの、下層時代からの友人でした」
ミカエルさえ、命令に従ってれば死なずに済んだ子だ。
「それを、恨んでるの?」
「はははは。それだけだったらどれだけよかったでしょう」
「ペリエル」
バービエルが窘める響きで名を呼ぶ。
重苦しい気分で肩を落とした。
「まだあるのか」
「ありますよ。彼女があんなに悲しむのには、それなりに、それだけの、理由がありますよ。シャルは優しい子です。傷ついて傷ついて泣いているときなのに、ラファエル様が目覚めたと聞けば、コールドスリープから目覚めたばかりで寒かろうと気遣って、来るな言われている職場にも手製の果実液を持ってこずにはおれないほどに」
微笑みつつ、ラファエルの持つカップを見る。
「美味しいでしょう? それ」
なんとも言えなかった。
「あの子は優しい子です。その分、とても悲しみを大事に抱えて生きている子です」
「わかった……聞こう」
ペリエルは仕事があるから、とバービエルに後を託し、壁に向かって消えていった。
バービエルは言い出しにくそうに、語り始めた。
*
シャリオは、ミカエルが好きだったのだ。彼を愛していた。
金髪で、緑の目をした可愛いシャリオ。
下層で、浮浪児の如く暮らしていた子供達。天使に親などないから、一定の年齢まで成長し学校に入れられるまで、上級天使に生まれついた者やそこそこの位が約束されている者や、生まれた時に上級天使に目をかけられたもの以外は、下層で、彼らだけで助け合いながら生きる。
そこで自然と作り上げられたコミュニティの一つに、シャルとシャリオはいた。
下層は治安が悪い。力ない者達は自ずと寄り添う。仲間達は下の者を助け、上の者に協力し、上の者がいなくなれば役目を受け継ぎ、それを繰り返す。下層で生きるのは過酷だ。助け合い、かばい合っても、学校に入るまで成長できずに死ぬ者も大勢いる。コミュニティ同士の争いに巻き込まれたり、上級天使のお遊びで殺されたり、ただ単に食べられなかったりするせいで。
だから、仕官し下層を脱却してからも、境遇を共に生きぬいた同じコミュニティ出身の結びつきは、強い。
シャルと、シャリオは生き残った。そして士官学校に入り、軍人としての教育を受け見事にパスし、僥倖にも同じ力天使としての職を得た。
二人はそれほど近い部署に配属されなかったが、暇を見つけてはよく会った。
そうやって何年か過ごすうちに、シャルはシャリオの懺悔を聞いた。
火の天使、ミカエルを愛してしまった。
「どうしよう、シャル。こんな気持ち、きっと許されないわ……!」
主は唯一神である
偶像を崇拝することなかれ
正当な場合以外の殺人を犯すことなかれ
階級を重んじよ
他人と交わうことなかれ
敬愛以上の情を持つことなかれ
秩序を乱すことなかれ
……神の決めた正しい道を踏み外すことなかれ。
シャリオは、思慕を持った。敬愛以上の、女性から男性を想う心を。しかも、その階級にそぐわないいと高き身である、上級天使ミカエルを。
シャルは直接ミカエルを目にしたことはなかった。だが、平生ラファエルに比較的近い配属になったシャリオは、彼を訪ねてくるミカエルをよく見た。見るたびに、その気持ちを強めていった……遠くから眺めるだけで、何も出来ない、それは罪のない甘い恋。心の綺麗なシャリオには罪悪をもたらすには十分なほど甘くて強い恋。
彼女に、シャルがなんと言えただろう?
二人の秘密。シャリオが抱えるのを、一緒にシャルが抱えてあげる、秘密の恋。
シャリオは密かにミカエルを想っては積み重ね、堪えきれなくなるとシャルにその気持ちをうちあける。そんなときが、続いた。長くは、続かなかった。
ルシファーの反逆、第一次大戦勃発。
多くの上級天使や堕落した者を引きつれて、神へ弓ひく背約者たちとの戦争が始まった。
彼女らは軍人として、戦地に赴いた。
シャルは目覚ましい働きをし、上が死んで行くにつれ戦果をあげるに見合った昇進を果たしていった。シャリオは別に、救護隊としての仕事をこつこつ重ね、位はあがらないものの、周囲の評判と感謝を得ていった。
かの忌まわしきユロラルド。危険な戦い。投入される主力は力天使ではない。能天使だ。力天使は彼ら能天使の補佐として、少数が回復役として派遣される。
シャリオは率先して、そこへの配置を志願した。
「ほんの少しでも、ミカエルさまのおちからになれるなら」
と。
医療隊が真っ先に潰されては話しにならない。医療隊の力天使は後方に配置され、能天使が大敗し全滅でもしなければシャリオは死ぬはずがなかった。
ユロラルドは勝った。だが、シャリオは死んだ。
手堅く進めるはずの定石を、能天使の長、ミカエルが完全に無視し個人行動をとり、そのせいで戦場の陣形が大きく崩れた。守備が薄くなり、勝敗が決す直前、力天使が待機している場所まで攻め込まれた。
そして、シャリオは死んだ。
死ぬ寸前に吹き込まれたボイスメッセージを、シャルは、まだ消していない。
どうして。……どうして。
あんなに、ミカエルを愛していたシャリオなのに。彼の勝手な行動のせいで、命を落とした。
恨んでも、恨んでも仕方がないとは判っている。シャリオは死んでしまった。どんなに恨んでも、悲しんでも、泣いても、もうシャリオは戻ってこない。ユロラルドでなくても、戦争が長引けば他の時にやっぱりシャリオは死んだかもしれない。でも……ミカエルさえ、炎の天使さえあのとき勝手な行動をとらなければ、シャリオはまだ生きていたかもしれない。シャルと一緒に戦争を終えて、笑いあって話すことが出来たかもしれない。そう思えば諦めきることも出来なかった。
一次大戦が終わって、故郷の……笑ってしまうが故郷の、下層の、二人が、仲間達の皆が育った場所へ行った。当時は飲み慣れない酒を大量に飲んで。
シャリオ以外にも、戦死した仲間は大勢いた。誰一人帰ってこない。
悲しみながら、悼みながらシャルは泣いた。
泥酔して泣いているシャルは、戦争が終わり女に餓えた数人の男達に襲われた。シャルの目はIチャイルド、穢れた子供達と同じ色だったから。そしてそこはIチャイルドがいるべき下層だったから。
抑えつけられ、下腹を剥かれ両足を開かされた。抵抗できなかったのは、酔っていたからだ。頭がはっきりしない状態で、手足も満足に動かない。
恐怖だけは、脳に刻みこまれた。
男のうちの誰かの濡れた指が入ってきた途端、シャルの力の留め金は吹き飛んだ。シャルの特殊能力である電撃がほんの少しの抑制もかけられずに周囲に放たれ、シャルを転がして上に乗った男達を骨の芯まで焼き尽くし黒炭と化した。
泣いて泣いて、どうすることもできなかったシャルを助けてくれたのは、まだ生まれてそれほど成長していない下層に生きる少女だった。シャルの階級章を見て、簡単ではなかっただろうに、力天使に連絡をとってくれた。当時まだ副官に就任していなかったバービエルがやってきて、シャルを庇ってくれた。汚される前だったために烙印を押される等の咎めはなく、天使殺しの罪も正当防衛と問われなかった。
けれど、シャルの心には憎悪を残した。
男なんて、とても恐ろしい生き物だ。自分のためには、女たちを平気で犠牲に出来る、恐ろしい生き物だ……。
シャリオが愛したミカエル。彼だって男だ。彼のせいでシャリオは死んだ。許せない。
許せない……!
爾来数万の時を、シャルは深い憎悪を秘めて、生きた。
有機天使アレクシエルが立ち、邪鬼たちと手を結び神に牙をむいた第二次大戦。アレクシエルの生まれ変わりたる無道刹那、救世使が現れ、地球の時が止まり、その末に神が死んだ第三次大戦。
長い時間だった。その間に、シャルは、深い憎悪を、ゆっくり、緩やかに心の傷にしていった……
そこに、現れた少女。
長い長い金髪と、紺青の美しい瞳の小さな少女。
シャリオの生まれ変わりではなかろうかと、思った。よく似ていた。瞳の色は違ったけれど。でも似ていた。
彼女はシャリオと似ていたけれど、違う部分もあった。どこか、大きくて、広さを感じさせる部分が、彼女にはあった。預かって、教育をしている最中、仕事のことでシャルに辛いことがあった。つい、言葉を満足には理解していなかった彼女に愚痴った。彼女は黙って聞いていて、最後に言った。
「大丈夫」
笑って、そう言った。シャルの頭を撫でて、微笑んで、ちょっと首を傾いで、
「大丈夫」
ほんとうに、大丈夫だと思った。彼女がそういうなら、私は大丈夫なんだと、シャルは思った。彼女は他に何も言ってくれなかったけれど、大丈夫、と言った。それだけで安心した。
大丈夫だと、言ってくれたんだから。
そうシャルに微笑んだ彼女は、シャリオと同じように、ミカエルへの愛を語った。シャルは言葉を尽くして止めたけれど、彼女の愛は遮れなかった。
それならそれでいいと、思った。
今度こそ、彼女を幸せにしてくれるなら、それでいいと。自分の気持ちよりも彼女の気持ちが尊い。
シャルはミカエルの傍にいられるように手配をし、働きかけ、バービエルも協力してくれ、その通りにことは進んだ。
ミカエルの傍にいるようになった彼女は、言葉にして言い尽くせぬほど幸せそうだった。他のどんな人やものでさえ彼女にあんな幸福な表情をさせられはしなかっただろう。
愛してる。ミカエルさまを、愛してる。全存在をかけてもいい。彼のためなら死んでも構わない。
彼女はそこにどんな理由があるかは知らないけれど、ミカエルを、全身全霊を込めて愛した。
ミカエルは、その想いを、裏切った。
『白い部屋』に、異質な天使を送ることがどんなことであるか、知らないとは言わせない。あんなに自分を愛した少女を、そこに送り込んだ。
ミカエルは彼女の愛を裏切った。
また、裏切ったのだ。
シャルは大好きな少女を、親友を、二人も、同じ天使に奪われてしまった。
同じ、少女達が愛した天使に。
大好きだったのに。彼女たちを死なせるくらいなら、シャルが死んだほうがよかったのに。
どうしてこんなに悲しいことが起こるのだろう。死んでしまいたい。
頑張っても、愛しても、奪われてしまう。得られるものがない。
充分に生きた。悲しいことがいっぱいあった。もういい。この長い生を、終わらせたい。
どうせ死ぬなら、
彼の目の前で死んでやろうと思った。
*
「つまり、あれはミカちゃんを殺そうとしたわけではなくて」
「はい。ミカエル様の前で自害しようとしたんでしょう。あの子に高位天使を殺害する度胸なんて、ありませんわ」
ややこしい話しがやっと終わって、ラファエルは、深く疲労感を覚えた。
これは、どうするべき類のことなのだ?
二人の少女がいて、両方シャルの親友で、両方ミカエルを愛した。そして、両方ミカエルのせいで死――一人はまだ不確定だが――に至る。
知らないうちにミカちゃんってモテてたんだな。
関係ない感想が出てきた。
ややこしい。
一人めのことは、しょうがない。ミカエルの行動さえ違えば、どうにかなっていた問題ではあるが、既に何万年も遠い時代に去ったこと。問題は現在だ。
「なんで、ミカちゃんはその子を渡してしまったんだろう。気に入っていたんでしょ? その子のこと」
「ええ……そうだと思います。あ……」
「何?」
「いえ、大したことではないのですが……直前に、ルナスが泣いていたことが関係していたら、と」
「泣いて?」
「ええ、あの、はい……」
訥々と、言いにくそうに、バービエルは言った。
悠長に寝ているんじゃなかった。
「その子の、裸を、ミカちゃんが見て、それで、避けるようになったと、彼女が泣いた」
「はい……」
でもなあ、と引っかかる。ミカエルが、女の子の裸を見たくらいでそんなに狼狽えるだろうか? ラファエルの情事に(未然とはいえ)踏み込んできても平気なミカエルが。
嫌いなものは嫌いだが、気に入ったら気に入ったでとことん気に入るのがミカエルの性格だ。扱いはともかく。女性が嫌いで、よしんばその裸を見て嫌悪感がたったとしても、だからと言って能動的に攻撃されたわけでもないのに死にまで追いやるようなことはしない。そういう奴じゃない。
歯車が合わない。
そう、おかしいのはミカエルなのだ。彼は彼の理屈に合わない行動をしている。
先程来たときも、どうも様子が変だったし。
つらつらと考えているうちに、思考の中でありえない≠フ部類に入っていたものが急にあり得る≠ルうへ移動してきた。いや、まさか。打ち消してみるが、そう考えてみると説明がいかないことも……ない。
「これは……ミカちゃんに色々と聞いてみなきゃいけなそうだね」
言うと、バービエルが目を上げて、下げた。出来れば是非、といったところだろう。
寝起きだというのに、面白いのか面倒なのか、どっちにしろやっかいなものを持ち込んでくれる、あのトラブルメーカーは。
ラファエルは苦笑した。
「シャルのことまでは、知らないよ」
「なんとかします」
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