4 失われた意識の向こうで







 最近、すっかりミカエルのことについて詳しくなってしまっている。
 お茶の好みやスープを飲むときのくせ、歩く速度、用のないときは何時に起床するのか、つめを切りそろえるのがあまり得意でないとか、頬杖を突くときにはどちらの腕をよくつかうのか、考え事をするとき視線がまずどちらに動くのか、ため息の長さによる気分の判定法やイライラしているときに踏み鳴らす足音のリズムに到るまで。他にも彼女が自分の主人について考えたこともないようなことまで今では彼女の知識に収められている。
 つまりは、始終ミカエルの近くで傍仕えのようなことをしているルナスが彼女に会うたび嬉しそうに、それは夢見るように話すからなのだが。
 今日は、そのルナスの勉強を見てやる日ではなかった。それよりもいくら片付けてもたまる一方である書類たちの整理に追われる予定であった。
 このごろは大戦直後ほどではないにしろ忙しいことに変わりないことで、廊下などにはいつも人が激しく行き来してせわしなく動き回っている。そのなかにぽつんと独り、利用するものはそれほど居ないのに、外観の問題なのか、それとも本当に 頻繁に利用されるのを考えて設置してあるのか、小休憩をとれるように壁に沿ってたまに廊下に現れるベンチの一つに腰かけて、ルナスがいた。ほとんどのスタッフが職場上白衣や白っぽい服装を着ている中の黒服は目立つのですぐわかった。顔を知っているものも行き交う中にはいたろうに、それぞれの仕事を抱えて彼女にかまう暇はなかったらしく、ルナスはひとりぼっちで折り目正しく座っていた。
 ルナスがひとりでそこにいることは彼女の立場上ない、というよりも建前上はあってはならないことだ。自分のところに来るときは、大抵人に付き添われる。でなければミカエルが一緒でなければ出歩けないことになっている。
 立場的にも心情的にも放っておくわけにもいかなく、とる予定のなかった長休憩をとることにして彼女を部屋に連れたのだが。
 一切合切の記憶がない状態から新たに言葉を覚え始めた頃のように、妙な受け答えをすることはミカエルに預ける前にすでになくなっていたから、何故一人でいたのかの質問には、薄々そうではないかと思ってはいたわかりやすい答えが返ってきた。
 気になったのは、元気がないことである。本人はいつもどおりに振舞おうとして近況――数日前からコンピュータの扱い方やメルカバの動かし方を教わっているのだとか、ミカエルさまはこんなことで笑っていらっしゃったとか――を話しはするけれど、根が単純なので非常にわかりやすい。原因は頬に貼ってある大きな絆創膏や長袖から覗いた指に巻かれた包帯のせいかと思ってそれとなく尋ねてみたがそれは違うらしい。ミカエルや能天使たちに戦闘訓練をしてもらっているのだそうだ。治療術は教えてあるが、ルナスは自分に対して使うときだけはある一定以上まで治ると効かなくなるので、保護観察対象のこの子に戦闘訓練など施していいものかしらとは思いつつ疑問には気づかなかったことにして(楽しいようだし)、治癒してやる。
 そのとき手首に誰かの羽根とふわふわした和毛で出来た手作りのブレスレットが見えた。
「お守りです」
 はにかんだ顔はそれが演技でないのと誰の羽根なのかの両方を謳っていた。
「そう」
 かつて天界で禁じられていた恋愛を犯して心を寄せ合う恋人たちが、長く離れる折、たとえば戦地に赴くときに、互いの羽根を交換しあい傍にいられない痛みをまぎらわせる習慣があったという。おそらくいまでもそう、人間が指輪を交換し合うように、羽根を愛する人に贈っているものは多いだろう。
 断言してもかまわないが、ルナスは絶対にそんなことは知らないけれど。
 バービエルもよく知ったほうではない。位が高い彼女に天使たちの知られざるべきあれそれがそうそう耳に入ってくるわけもない。かといって、まったく入らないかといえばそういうわけでもない。入ってきたとしてそんなことはいちいちルナスに教えたりはしないし、無知な彼女に世間の一般常識を叩き込んだ某は浮わついた話にまったくもって興味のない女性。もしかしたら、能天使の者達の誰かに聞いたかもしれない。しかしその可能性は低い。
 自分で考えて、作ってみたのに違いない。そのうち自分の意思で羽根を出せるようになったら教えてあげよう。ルナスが彼に羽根を贈れるようになるのはいつになるだろうか。きっと彼も知らないだろうから、ルナスに受け取って欲しいとせがまれれば多少嫌がるかもしれないが、受け取る。
 想像して、クスリと口元が緩む。
「よかったわね。他に痛いところはない? ミカエルさまが戻るまではここにいたらいいけれど――テキストはないでしょう? 歴史書でも読む?」
 ルナスが返事をしかけて口を開く一刹那前に乱暴にドアが開いた。
「バービエル様ー? ルシアがいるって聞いたんですけどー……ハァイルシア!」
「シャル!」
 歓喜というよりは楽しげに、ルナス。
 軍で作りこまれ、火急の時には真っ先に志願して戦うための準備を怠らない長身は両手に薬物用の薄ケースや大量の布をもって、そのままルナスに駆け寄り座ったままの顔中ところかまわずキスをして、額に自分の額を軽くぶつける。
「あぁ、るっちゃんこのチビ、元気だった? 最近全然会えないくて寂しいよ。ま、顔見ないってコトはあんたに薬打たなくていいわけだからそりゃいいことだけど」
「シャル」
 咎めだてる響きを含ませて、名を呼ぶ。
「入るときはちゃんとノックなさい」
「ははは。すいませんね、両手がいっぱい夢いっぱいなもんで」
 見ての通り、と肩をすくめる。
「じゃあドアはどうやって開けたのかしら?」
「足で」
 これだ。
「お行儀悪いわよ、シャル」
 指摘したのはルナス。シャルは意地悪そうにニヤッと歯を見せ、持っていた布をルナスの顔に押し付ける。
「あんたに行儀を説かれちゃお仕舞いだね、あたしはルシアがミカエル様の前でどんなにしてるかいつも不安でしかたないってのに。 いつヘマしてつっかえされてくるかヒヤヒヤしてるよ。あんたが変なことしたら、あたしのせいにもなるんだから」
「シャルったら」
 ルナスは押しやられた布を両手で受け取り、眉をひそめた。
 『ルナスに一般常識を叩き込んだ某』とは彼女のことだ。知識や学、言葉をバービエルが教えているかたわらで、あーだのこーだのと天使として振舞うべきを懇々とルナスに弁じていた。普通当たり前として誰も意識しないことを真剣に言い聞かせているのを、真面目くさってルナスが聞いているさまには思わずスタッフの間で苦笑が漏れたもの。よくそんなことまで教えようと思いつくのかと。
 二人は気が合うようで、シャルはルナスを検査している最中から『あたしの友達』といってはばからない。
「シャル、あなた勤務中でしょう」
 ルナスの隣に腰掛けてルナスにだしたお茶を勝手に飲み、くつろぎ始めた様子のシャルは不満げに顔をゆがめた。口の中を飲み込んですぐさま反論が返される。
「あたしまだ長憩とってないんですよ。昨日やおとついもラジエル君ら新勢力との会議のためにてんてこで残業だったし、いいじゃないですか。いつも一所懸命仕事してんですからたまにしか会えない友達とちょっとくらい喋ったってバチあたりませんて」
 戦場に赴く際にはむしろ潔い有能な部下の一人なのに。
 そういえば、ルナスの名前を色々と考えてみた中で決めたとき、『なーんかしっくりこないくないですか? んー、る……ルシ、ア。ルシア≠ノしましょうよ』と言い出したのが彼女だ。良くも悪くもわが道を行っている。
 こんなことはどうでもいいし、別に全てに従えとはいわないけれど……軍人の顔をしているときとのギャップは、どうにかならないものか、と思う。戦闘服に袖を通した彼女は、命令違反はおろか、一切の口答えもしない。
「あー、じゃあ、仕事しながら話すんでルシア借りてきますよ。それでいいでしょう、バービエル様?」
 嘆息する。
「休憩くらいとったらいいわ。私が話しておくから、ルナスと喋ってらっしゃいな」
 そうこなくちゃ、と指をはじくシャルにそっと、目配せする。それだけで観察力に秀でたことが高い評価を受けるシャルには十分伝わる。
 シャルはルナスを見やり、視線だけバービエルにやってゆっくり一回まばたきをした。
 わかりました


「よし。出来たよ、まわってごらん」
 実は、ほほやゆびばかりではなく背や腹や胸、膝にもくっきりと赤や青の痣はできていた。痛い、という感覚がどうもピンと来ない彼女は、バービエルの手をわずわせるのもなんだなと考えたのと、読んだ本に『痛みを知らなくては強くなれない』といわれたのでそういうものなのかと 思って黙っていたのだが、着がえをすすめられて服をぬげば、当然それらはシャルの目に入る。シャルは悲鳴をあげ、問答無用で治療をした。肌はもとどおりになって、動きづらいへんな感覚(これが 痛み≠セ)はなくなった。シャルの気づかいは嬉しいけれど、まだまだ強くはなれないんだなと 思うと残念でもある。
 言われたとおり、二回まわって両腕を開く。たっぷりした手製の黒いスカートは空気を含んでふわりと広がり、回転の停止に遅れてひだをつくる。ワインレッドの袖は柔らかくからだの線にしたがって、腕をひろげてもけして邪魔にならない。長い髪は編まれ結われに消費され、流されるところやっと肩まで。いうとすればひとつ、首にさげられたつけなれないネックレスがすこし落ち着かない。
「うんうんかわいいかわいい。見込んだ通り、肌白いもの、濃い系が似合うこと。この雪肌にキズつけようたぁ、能天使の奴らも何考えてんだか」
「ううん、すごく手を抜いてもらってるのよ。でも私よけたり受けたりがなかなか出来ないから」
「シャラップ」
 シャルの立てた人差し指が、鼻をつぶす。
「そーよ、そもそもなんで戦闘訓練? あんた戦う必要どこにあるの? 保護♀マ察されてんだからイザって時は守ってもらえるもんなのよ。特にあんたは女の子なんだから。女の子は守ってもらえばこそでしょうに」
「でもシャルは戦うでしょう?」
「あたしは軍人だからね。……なに、あんた軍人になりたいの? やめとけってマジで」
「そういうわけじゃないけれど……」
 シャルが使っている仕事部屋は専用ではないのにあちこち彼女の私物が置かれている。鏡台もその一つ。わざわざ作ってくれた服と邪魔にならない髪型を伝授してもらったその前から移動し、デスクつきの椅子を一つ勧められ、インスタントのコーヒーを渡される。
 強くなりたい。
 熱いコーヒーが喉もとをすぎて胃落ちじんわり染み込んでゆく。
 ううん、本当は、強いはずだ。だって、あんなに強いひとたちを、知らない間にも、たたかって圧倒していた(らしい)んだから。今は、戦い方がよくわからないだけ。でもそれは、弱いのとおなじ。
 それに、強くなれたら――
「で、あんたはなんでさっきからそんなに拗ねてんの?」
「拗ねてません」
 想を中断し、きっぱりと否定する。
「いや、拗ねてるだろお前は。バービエル様が心配してた」
「拗ねてません」
「拗ねてる」
「拗ねてないったら!」
「……知ってた? あたし、通常勤務はカウンセリングなんだけど」
 唇をつぼめ、合わせた太もものうえで指をくむ。
 シャルは面倒くさげな造作の顔(気にしているらしい)の、ほんのすこしだけつり気味の目を上方に向けてハネた赤い髪をいじっている。うすい唇は今にも口笛を吹き出しそう。
 あきらめる。かくしても無駄。
「……拗ねてるんじゃないわ」
「拗ねてるんじゃなかったのか。じゃ、どした? まさかミカエル様と一緒に居られなくてさみしかったとか」
 首をふる。
「だよね。なんなの?」
 興味深げなシャルの視線から顔をそむける。
「……言わない」
「オイこらァ」
 シャルはずん、と顔をよせて鼻白む。
「るっちゃん? どゆこと?」
 そんなシャルをあごを引いて上目にのぞく。
「だって」
「あ、やっぱミカエル様系の話? いーよ言え言え。誰にも言わないから。約束する。友達でしょうよ、なにかあたしに手助けが出来るかもしれない」
 と、キャスターつきの椅子に腰を落とすシャル。なんなら指切りしようか? と右の小指を立ててみせる。
 どうしてシャルにはわかるんだろう。何を隠そうと、核心まではいかずとも近いところを言いあてられる。これも、持ち前の観察眼とそれに照らし合わせる心理学知識のなせるわざなのだろうか。
「誰にも言わない?」
「言わない言わない」
 そうっとコーヒーカップを手で包んで、首をかしげる。考えをめぐらして、いいはじめのことばをえらぶ。
「心配なの」
 そう、いうならば、心配なのだ。
「ラファエルさまとの関係が?」
 うなずく。と、シャルは慌てたように手を開き、弁解するがごとくいい焦る。
「いや、さすがに大丈夫よ。確かにお二人は仲がよろしいけど、そんなことは絶対、ナイから。ありえないから。あたしもずっとみてきたけど、そういうの無かったと思うし!」
「え?」
「ラファエル様は女にしか興味ないし、あれありすぎるのも問題だけどそう言った意味では男性は嫌いだからね。ああ、でもミカエル様も女性がお嫌いだからってまさかそんなことは」
 ちょっと、話がかみ合ってない気がする。
「まってシャル、なんのこと?」
「え? あんた、ミカエル様がラファエル様と……あ、違うのね、違うならいいの。忘れて」
 何か別のことと早合点していたらしい。話がとても飛んだような気がするが、シャルはいったいどんなことを考えていたのだろう。
「?」
「続けて続けて」
 真っ赤な顔を片手で顔をおさえてもういっぽうをぱたぱた振り、続きをうながす。しかし――
「それだけだけど……」
「おーい」
「なあに?」
「あのさ、はぁ……。原因を聞いてるのよ。ミカエル様の、ラファエル様との関係をあんたは『どう心配してるのか』を説明なさいって言ってるの」
 そんなことをいわれても。胸中で反論する。説明なんて。
 気持ちを他人に伝えるのは、とても難しい。気持ちは気持ちとして胸のなかに浮かんでいるもの。言葉に変換するのは、とても難しい。
 ただ心配。ミカエルさまが心配。ぼぅ、っとあのうしろすがたを眺めながら、胸をついた気持ち。 ぎゅっとしめつけられて底の方が冷たくて、叩いたら抜けてしまいそうで、表面ばかりはチリチリしている。こんなことをいっても、『わかんねー!』と叫ばれるだけだろう。確かにこれだけでは自分が言われてもわからない。
 そんな様子に気がついたか、シャルはやや申しわけなさそうに言いなおす。
「ごめん。ちょっとずつあんたのわかる範囲でいってごらん。あとは勝手にこっちで解釈するから」
 考える。どういえばつたわるのだろう。ことばをおぼえるために、たくさんたくさん本を読んだ。ようやく、読んだり、聞いたりするぶんにはだいたいの意味がわかるようになってきた。けれど、自分から言ったり、書いたりするのにふさわしいとおもえることばは、まだ簡単にでてこない。考える。
「ミカエルさまが、こう、沈んで、らっしゃるの」
「沈む? あの人が?」
 シャルの意外そうな顔をむっとした目で見つめると、苦笑いする。
「ごめんごめん」
「…………」
「わかってるよ。で?」
「……長く、ラファエルさまがお目覚めに、ならない、から」
「あー、はいはい。ラファエル様が起きないのにミカエル様がつまんながってるのがあんたは心配なわけ」
 ちょっと、違う。
「つまんながってるんじゃなくて……迷ってらっしゃる? ちがうな……えぇーと、願う、じゃなくて……あ、そうよ、嫌がってらっしゃる!」
 やっとはまる言葉がみつかった。嫌がっている。……なにか他にも言い様がある気がしないでもないが、一応これで意味は通じるはず。
「ラファエルさま、お目覚めにならないでしょう? それをとてもミカエルさまは嫌がっていらっしゃる。何かしてさしあげたいけれど……面会に行かれるときはおひとりだから私はラファエルさまにお目通ったことはないし、ミカエルさまも別にそういっていらっしゃるわけではないわ。でもミカエルさまのお気持ちを感じれば、心配」
 シャルは真顔で腕を組んでいた。ふとたちあがり近くの窓をあけ、両手でメガホンをつくり叫ぶ。
「下らね―――――――――――――――――――――――――――――――っ!」
「ひどーい!」
「ていうかその程度のこと言うのに悩んでんじゃねぇーよ、チビぃこの! んなんバービエル様だってウジエル様だってペリエル様やバリエル様やタルシシュ様やアリエルとかフィリジエルも、あたしだって! ラファエル様がいつまでも寝てんのは嫌だっちゅーの!」
 すさまじい剣幕に押し黙る。そうかもしれないけど、やはりちがう。バービエルは、近いかもしれない。でもシャルが思っているのとミカエルの気持ちはちがう。
「うう」
 うめく。何がちがうのかといわれたら、説明する自信はゼロなので。
「かー、バービエル様も呆れなさるわ、きっと。心配なさっていたのに」
「ち、ちがうもん」
 本人こそあきれかえってこうべを振るシャルに、小さく抵抗してみる。 そういえば、その前にだれにもいわないといっていたはずなのに、やはりバービエルには報告する気だったのか。
「なぁにが?」
「シャルたちと、ミカエルさまのお気持ちはちがうわ」
「さーよけー」
「もうシャルったら」
「いやいや、ルシア。わかってるよ、あんたが言いたいのはアレだ、ミカエル様は心を痛めてらっしゃると。そういいたいんだろ」
 独りで我得たりとばかり晴れやかにうなずくシャル。
 それだ。内心驚き、喜ぶ。通じてる。私の言語力も、ちゃんとあがってるんだわ。それは、シャルの理解力が高いっていうのも、あるかもしれないけど。
「そう、それ。すっごく心を痛めていらっしゃるの」
「ヴァカーこの」
「え」
「あの方がんなことで心を痛めるタマかっ! 天変地異の前触れでもありえないわよ! 安心なさい、あんたの心配は取り越し苦労、無駄な杞憂ですから。あーもー心配して損した」
 勝手に完結してしまった。
 意味は通じてたのに、シャルの認識がちがう。こまった。しかもシャルは一度こうだと思ったら、人の話を聞かない。
「ちがうのに……」
「うるせ。ねえ今日果物持ってないの? なんか食べたい」
 最後の反抗も無下にされ。しゅんと落ちこむが、もと着ていた服のポケットから種を出し握りこみ、アストラル力を与える。はじける音と同時に投げる。
 ぽんぽんぽんぽんと、一つがこぶしふたつ分もありそうな薄緑色の果実がいっきに実り、デスクを埋めつくす。
「うわぉっ」
 果実が二つ、転げて落下しそうになるのをシャルが両手ずつ受け止める。
 量がおおかったので、腕のつけねあたりに疲労感をおぼえて息をはく。とてもかんたんなわざのはずなのに、これだけで疲れてしまうのはアストラル力をつかう効率が悪いから。注意して力をつかってはいてもねがいどおりうまくはいかないもので。
「品種改良してみたの。たぶん、シャルの気に入るわよ」
「そりゃどーも……機嫌直せよ。ミカエル様のこと、痛痒に鈍感な朴念仁みたいに言ったことは謝るから。そーだあんたのために買っておいたものがあるんだった」
 シャルはデスクの足元の奥に頭をつっこむ。別に、怒っていたつもりはなかったのに。
「ほら、お詫び。欲しがってたろ?」
 どこにぶつけたのか、赤くした鼻をさすりつつ紙袋をだしてさしだす。
「これは?」
「各種せんべと緑茶。こないだアリエルたちと物質界の東京に買い物いったんだわ。バービエル様にはナイショだかんね。もし言ったら次からは絶対買ってこない」
「……ありがとう!」
 うれしさに抱きつくと、シャルはくすぐったがって身をよじる。
「やっとわらった。感情起伏の激しい友人を持つと苦労しますよ」
 額にキス、ひじで腹をつつかれる。おかえしに足をかけようとしてかわされる。お互いにわらいあいながら、改めてひととき談話をもつ。
 二人の会話は、シャルが話すことのほうがおおい。今回は物質界の世俗のこと。
 バービエルには教養や知識を、シャルは生きていくのに知らなければこまること、社会になじむために必要なことをみな教えてくれた。その教えに、なぜなのか理由がわからないこともしばしばあって、しつこくたずねたこともあった。ほとんどはちゃんと得心するまでわかるように、丁寧に言葉をつくして説いてくれた。それでも理解できないときは『なんででもそういうもんなの!』とその場はいいくるめられたが、後々になって納得し、いいつけを守ってよかったこともひとつふたつではない。特に体のことがそうだ。他人の前で裸の胸部や腰部を見せてはいけない、直接肌にきている下着の一枚上はいくら暑くてもぬいではいけない、決して男性 や人が大勢いるところ、知らない人が居るところで着替えをしてはならない。言われたときは不思議で仕方なかった。
 加え、友達だといってくれる。
「……ってわけでサ、飲みに言ってもすーぐへばっちゃってつまんないこと。ルシアは、酒平気だったよね。早く一緒に飲みにいったり遊んだりしーたーい」
 複雑な気分で曖昧な顔をしていると、上目にジトっとにらまれてしまった。
「あんた、ちゃんと記憶戻って欲しいとか思ってる? 自由になりたいとか思ってる?」
「……あんまり」
「ほらね、やっぱりね、けっ。そーよね、そーよね、あんたってそういうヤツよね。友達甲斐ないヤツ。ほーんと薄情。やんなっちゃう」
 ふてくされて鼻を鳴らす。
「そんなことないわ」
「どーよ? はん」
「好きよ、シャル」
 シャルは言葉を詰まらせた。口の中でごちょごちょともてあましてから、
「そんなら、いーのよ。うん」
 と、わざとらしく大きな咳払いをし、時計を見上げる。
「あー、もう結構な時間がたっちゃったねぇ! あたしの長憩もこれ以上長引くとタルシシュ様にまたイヤミ言われちゃう。それに今日は夜から会議だし、準備しなくちゃ。ルシアも、ミカエル様、もうご自分のメルカバに戻られてるから早く行ったほうがいいんじゃない?」
「え?」
 さらっとシャルは言った。『もう戻られている』。
「え? え――――!? ミカエルさま、戻ってらっしゃるの? え? シャルが知ってるってことは……やだ!」
「だぁーって、あんた、教えたらいくら久しぶりだって『ごめんね』とか言っていそいそ行っちゃうでしょう!?」
 ごめんなさい。
「急がなくちゃ!」
「あーほら、転ぶなって! 土産と服忘れるな! アリエルが渡したいもんあるって、1058号室寄って行けな」
 シャル手ずからの手さげ――物質界の日本で行われた“オリンピック”とか言う運動会のマスコット四匹のアップリケがついている。かわいい――をさしだした手を両手でつつむ。 
 あの優しいバービエル教えてもらった残酷な天使のなりたち。
「シャル、私は幸せよ。こんな境遇だからこそ、本来天使にはない家族がいるんだもの。あなたは私のお姉さま。とても大事なひとだから。嘘じゃないわ」
 シャルは目を丸くして、それから悪戯っぽく笑む。
「バービエル様はお母さまだっけ。じゃあさしずめ、あんたの王子サマは旦那さまってトコ?」
「ううん、ミカエルさまは、お父さま! じゃあ、またね! これ、ありがとう!」
「は? う、あ、そのスカート、あんまり走ると下着見えるからなー! 聞いてないか」


 その場に残されたシャルは、静かになった部屋の中。
「……お父さま?」
 お父さま。父。男親。精子提供者。創世神。
「……あいつの考えてることは、あたしにはよくわからん」

 理由はあるのだとは思うのだが。残念ながら彼女は自分自身の気持ちや感覚を言語的に表現する語彙を十分に持ち合わせていないので説明を求めてもたぶん言えないだろう。
 時計を見る。
「あーやっばい、そういや今日ゲヘナの女皇くるんだ。歓待用の菓子作れって言われてたんだ。やば。やば。シュークリームじゃだめだよなーラジエル君好きなんだけど。ケーキつくんの? 今から? ぐえ……何人分だっけ? アリエル手伝ってくれっかなー」
 赤い髪をかき乱し、受話器をとって、ダイヤルをまわす。

          *

 未だに、どう整理したらいいのかわからない。
 深く根ざした裏切り。その奥にあった真実。
 感情。
 思慕。
 裏切り。
 憎しみ。
 無理解。
 理解。
 決別。
 なるべく考えないようにしているのだが、退屈をもてあますと頭の中に割り込んでくる。考えるのは苦手だ。どうせこれといった解がでてくることはない。さりとてふと浮かびくるモノを止めることなどできるわけもなく。
 だから、暇じゃないほうがいい。
 ……暇だ。
 ラファエルへ面会に行ったのに、気が向いたから以外の理由をあえてあげるなら、顔が見たかったとか話しがしたいとかいったこともあったのかもしれない。
 が、だ。見れども見れども目を開けない者を相手に一方的に喋りかけるのも馬鹿らしく、もしそんな折に偶然起きたとしたらそれはそれで腹が立つ。早々に切り上げたら連れてきたルシアがいない。毒づいていると、赤毛のデカ女がラファエルの副官のところだと言ったので、迎えに行くのも面倒で先に戻っているのだが。
 帰って来ねェ。
 あのヤロォ戻ってきたら絶対一言怒鳴ってやると、固く心に決めてイライラしながら待っているのに。そのうち段々眠くなってきて、壁から直接出っ張っている座部に身を持たせかけまどろみ、夢と現の狭間でゆらゆらとたゆたう。
 浅い夢はかつての記憶。遠くない戦いの記憶。こうやって目を閉じていれば、あの帰還のあと身を横たえた今そのすぐ後だと錯覚してしまいそうになる程に。
 名前。顔。それぞれみな通り過ぎて行った。
 救世使。
 アレクシエル。
 ロシエル。
 創世神。
 アダム・カダモン。
 ラファエル。
 バル。
 ――兄。
 あれから、彼の生きてきた歳月に比べればまだ瞬き一つに等しい時間しかたっていないのだ。しかじかものをこなしていれば勝手に時間はたっている。そうやって創世記からずっと過ごしてきた。いずれ気が付けば化石になるほどの時が去って、きっと遠い昔になるのだろう。あのことも。それが永劫を生きるものの業とさだめ。最近は、

 たたたたたたたたたっ ごんッ! ガー

 それぞれ、駆ける足音。自動扉が開く前につっこんだ音。扉が開く音。
 ……それなりに、新しい刺激があって所々楽しめることは否定しない。
 が、それとこれとは別だ。覚醒しながら怒鳴りつける。
「おッせーんだよてめぇッ!」
「ごめんなさぁい」
 したたかにぶつけたのと全速で走ってきたのとがあいまってか、くぐもった声で謝すルシア。妙な髪形に紙の冠を頂いて、紙吹雪でもくらったかのように三角形の色紙が散っている。走ってきたままに 赤い顔で息を切らしながら、
「戻られ、ますわよね? 動かしてまいります!」
 ぶつけた額をおさえて走り去る。急なターンにひるがえった膝の露出した黒いスカートから、白い太腿がつけねまで覗かせた。
 数分して、機体の動く振動が伝わってくる。不慣れに手間取ったに違いない。おかしなところに着かなきゃいいが。
 すぐに戻って来るものだと思ったのだが、しばらく戻ってこなかった。他の部屋でまた自製のスライムでも投げて遊んでいるのかもしれない。楽しいのだろうか。勧められてもやる気はしなかった。
 再びうつらうつらとし始めた頃、扉が開く音がして、その後に進入の足音がして、数歩歩いて止まる。話しかけようか迷っている。ミカエルが目を閉じているせいか。
「何だよ」
 不機嫌に目を開ければ、ルシアが立っている。湯を沸かすガラスポットの取っ手と底を持って、ひとときまえの赤みが嘘のような顔色をして。
「圧熱機の調子が悪いみたいで」困ったように笑う。「お水、温めていただけません?」
「自分でやれよそんぐれェ」
 炎元素を操る心得があるなら簡単なことだ。出来ないとは言わせない。しかし。
「ポットの替えがないので」
「あん?」
「できないんです。あの、コントロールが下手くそで、私。いちど、あのー、ポットが、ドロドロになってしまって、以来絶対自分じゃやるなって言われてて」
「お前よく、果物とか増やしてんじゃねーか」
「あれは、失敗しても部屋中くだものだらけになるだけですみますから」
 と、すまなそうに首を傾げる。
 四大天使ともあろうものが、ヤカンの代わりかよ。
 実際、ルシアとって四大天使の肩書きは、湯を沸かせるヤカンの便利さと比べたら同等の価値しかないのだろう。ミカエルはミカエルで、沸かせるだろうから頼もう、と所詮その程度である。嘆息したくなるのは胸中で我慢して、ポットを受け取る。
「手ェ出せ」
「?」
 不思議そうに、だが素直に出してきた手を握る。その手はひどく冷たく、あまり他人の手など握って比べないが、ここまで冷たい手はむしろ貴重なのではないかとミカエルは思う。
 口に出す前に頼まれごとをこなす。簡単なことだ。十数秒もしないうちにポットのそこから小さな泡が生じ、水全体が沸き立つまで三十秒はかからない。
「わかったか?」
 ルシアから手を離しポットを返す。が、ルシアは火傷をせぬように気をつけつつ、
「はい?」
「はい? じゃねーだろ、わかったかっつってんだよ、アストラル力の調節!」
「あ! はい、えっと、あ、ごめんなさ」
「てめぇ俺が何のために手ぇ掴んでたと思ってんだ?」
「ごめんなさい、ミカエルさまの手、温かいなぁと思ってたら終わっちゃったんで……」
 鼻を鳴らす。
「お前の手が冷たすぎんだよ。血ィ流れてんのか?」
「のはずですよね」
 確たる自信はなさそうに、頭を下げて、ミカエルに背を向ける。
「そうだ」思い出したように振り返り、言う。「ミカエルさま、今日はですね、珍しいお茶とお菓子頂いたんです。物質界の小さな島国の名品で、お茶なのに緑色で、お菓子はクッキーに似てるのにかたくてしょっぱいんだそうですよ」
 知ってる。なんだったか。記憶のすみからほじくりだす。
「あー……、緑茶ってのと、煎餅とかいう食いもんだろ」
 ルシアはミカエルを見る。きょとん、と。 
「あのなぁ」ため息交じりに半眼をやる。「お前俺が何万年生きてっと思ってんだよ」
 考える風で小首を傾げ、しばらくしてやや突き出した唇から感慨深げに吐息を漏らした。
「私は、まだ五年も、生きてないですねぇ」
「一緒にすんなバーカ」
「はい……」
 ルシアは、肩を落として出て行く。肩口で不自然に髪が揺れた。
 ンだありゃ?
 どうも、残念がっているように見える。何を期待していたのか知らないが。   
 緑茶と煎餅っちゃ、ザフィケルのおっさん(セヴィーに羽落とし喰らったんだっけか。けっ)がよくわからん用事で俺んトコ来るときに手土産ついでに持ってきてた(『これつまんないもんですけどね、おいしいですよ』)。
 相変わらずワケわかんねぇ女。俺が知ってちゃ悪ィか。
 あれを見てると、セヴォフタルタや頭のおかしい研究員どもが他人を脳みそだけにして情報を引き出したがるのもわかる気がする。
 三度現れたルシアは腕が自由になるように切れ込みの入ったショールを肩にかけ、トレイの上に素焼きを二つとティーポットに小瓶、皿の上に何枚かの煎餅を。
 黙ってミカエルの横にそれらを置いて、挟んで向こう側に座り、正式な淹れ方で緑の液体を湯呑みに注ぐ。小瓶から匙で粉のミルクと砂糖を混ぜた白を掬い、カップの上で傾け「ちょっと待て」
「どうしました?」
 待てと言っているにも拘らず白粉は緑色の液体に溶けて、ついでに匙がダイブする。中はかき乱されて完全に分離しがたい緑がかった白濁液に成り下がった。
「なんでそんなもん入れてんだ?」
 指差す。ルシアは口を口笛を吹くくらいの隙間を開けて考え込み、一旦閉じてから、
「要りませんでした?」
「そーじゃなくて……緑茶ってのは普通なんも入れないで飲むもんだろ」
 サッとルシアの顔色が変わる。心理がどう変化したのか読み取りにくい顔だ。
「そうなんですか?」
「だろ」
「飲めません?」
「知るか」
 ルシアは湯呑みを持ち上げ、中身と向き合う。納得がいかないのだろうたぶん。でもまあ、そういうものなのだ。
 聞こえないように呟いたつもりだったろうが、ミカエルの耳にはしっかり届いた。「まあ、いいや」いいらしい。
「こちらのほう、どうぞ。まだ入れてませんので」
 と、トレイから降ろしてミカエルの傍に置く。自分はミルク入りの湯呑みを口元に添えて一吹き、口にする。表情は変わらない。それほど不味くもないらしい。
 自分の湯呑みを傾けていると、隣から声がかかる。
「ミカエルさま、これなんだかわかります?」
 指先は煎餅の一つにへばりついている黒い四角を。短く答える。確か。「海苔」
「じゃあこっちのは」別の煎餅の黒い粒々。「胡麻」
「表面に塗ってある茶色いものは?」全体的に示して。「醤油」
「……この不思議な形のカップはなんていうでしょう?」手の中のもの。「湯呑み」
「…………」
 完勝だ。いや、嬉しくないが。というより――
「馬鹿にされてんのか俺」
「いいえ。そんなことは決して」
 珍しく強い調子できっぱりという。違うのなら目的がやはりよくわからない。遠くを見るような眼は考え事をしているようにも見えるし、逆にぼーっとしているだけにも見える。ほっとこう。
 ほっとくことにしたのだが。隣でそわそわしている気配は嫌でも伝わってくる。一見煎餅を二つに割って片方ずつ齧って咀嚼、茶を飲む動作を繰り返している。けれど落ち着かない様子で首を動かしたり、足踏みをする。 眠気を伴っていい加減ミカエルがうんざりしてきた頃。
「あの、ミカエルさま」ルシアは、ミカエルに横顔を向けて俯いて言った。細く一呼吸。
「やっぱり、これは言っておこうと思うんですけど」
 重くなり始めの目蓋を半ば上げ。
「あんだよ」
「私、いつまでミカエルさまのお傍にいられるんでしょう?」
「あ?」
 ンなもんてめぇが身元判明したり記憶戻ったら――と言いかけてルシアが慌てて否定する。
「そうではなくて、あの、お返事は今していただかなくてけっこうなんですけど、私の身分が証明されてから……。えと、ここからが私の言っておきたい意思で」
 やたらとたどたどしく、ただしその分一から百まで本気なのが明らかな口調で。ルシアは顔を上げ、据えて真直ぐミカエルを眼差す。思わずとっさにミカエルは視線を背けるが、ルシアはかまわず続けた。 偽りも、虚飾もなく。
「私、ミカエルさまさえいいのなら、ずっとあなたの傍にいたい。いさせてください。私はあなたのために出来ることがなんでもしたいから」
 ある種。
 物凄い自惚れ屋だったり、極度の照れ屋だったり、矯正し難い自意識過剰なナルシストであったりする者にとっては、これは、この上ない愛の告白だと認識したに違いない。 ちょっと段階が低いものでも類似する感想を抱いただろう。 ごく普通の感覚を培ってきた者ですら、決定的な一言ではないのは了解しつつ、まさかと思いつつ、水面下にこめられたと思しき意味は大体理解しただろう。
 しかしだ。
「んじゃ、膝貸せ」
「……。……? いいですけど、何に使うんですか」
「昼寝」
 物凄い卑屈屋だったり、極度の鈍ちんだったり、矯正し難い唐変木であったりする者、しかもそいつが眠気に襲われていた場合などは、これは、決定的な一言がない限り、そうあるべきとして、額面どおりにしか受け取れない。彼らの場合、理由としては二つめだ。ミカエルは極度とまでとはいかずとも、鈍ちんで、睡魔の強襲を受けている。
 なんとも誰も困らないことに、愚直なルシアが言の葉奥に秘めたる意味を持たせるわけもなく。むしろ余計なことにならなくて丁度良かったのだとさえ言えないことも、ない。
 ルシアはトレイを片づけ、軽く膝を払う。 
 ふとミカエルは揺れた髪の毛を留めるピンに目をやる。結果を求めての動作ではなかったけれど、大体セットのしやすいように長い一本のピンで留めてある彼女の髪は、全体を支えるそれが抜かれてしまえばするりと流れておちる。編まれた部分が数箇所残ったが、よく梳いておけば絡まりにくい質の髪は少し指を入れればたやすくほどける。
 髪が解かれてもルシアは特に意にも介さない様子で、首を振って流れるのを助けた。
 ミカエルの頭が膝に据えられて、訊く。
「レクイエムと子守唄、どちらが好きですか?」
「俺を殺すな」
 ミカエルは選択にバラードがないことを気にかけつつ、ルシアの顔を見上げながら長い金髪を指でもてあそぶ。アダム・カダモンに少し似てるな、と思った。初めは鬱陶しかったが、こうやって間近で見るとあの髪に似てる。こうやって触ることは、一度もなかったあの髪に。
 彼女の鼻腔に響くなだらかな旋律は心地よく彼の耳に届き。
 ああ、そういえば。眠りを近くに感じながらぼんやり思う。ルシアは、彼が激しく嫌悪したあの『女』の匂いがしない。 代わりに遠い遠い昔を思い出す時のような、懐かしい既視の感覚がする。こうやって頭を預けて眠る気になれるのは、そのせいなのかもしれない。 唄が止まる。腹部辺りにショールがかけられて。
「ミカエルさま、あとで私の練習に付き合って頂けませんか?」
「……考えとく」
 再開。額に体温の低い指がふれられて、ミカエルは目を閉じた。


 彼が眠っている間、一度通信機に連絡が入った。ルシアは柔らかく微笑んで人差し指を一本、唇にあてて引き取らせ。
 少女の膝に抱かれて眠る天軍の長を目撃した男は、誰彼に話したい欲求と噂になって当人の耳に入ったとき、発生源たる身に起こるべきことの危惧とが相反し、その後少し、胃を病んだ。


 目が覚めたら辺りが暗かった。迷う夢のきれっぱしを振り払い、寝台から身を起こす。靴は脱いでいるのに、カフスは外れているものの外出着を着込んでいる。 妙に気分がすっきりしているのだが、状況がよくつかめない。真夜中ではない。日が落ちて幾分か、でなければ夜明け前。
 いつ寝たっけか、俺。曖昧な記憶の糸をたぐり寄せる。 ベッドに身を投げた記憶がない。
 自分の記憶を訝りながらも寝台を這い出で、脇にきちんと揃えられたブーツに足を突っ込み歩けるだけのベルトを止めて部屋を出る。
「?」
 少々、違和感を感じるが、その正体はまどろみの霧先にぼやけて見えない。
 居間でソファの上ルシアが座って本を読んでいた。煌々と照らされる光を、闇の自室と仄暗い廊下を歩いてきた瞳が拒絶して目蓋を細める。
 ルシアはミカエルに気が付くと、茜色の表紙、エノクに銘をうたれた本を閉じた。
「よく眠ってらっしゃいましたね」
「……ああ」
 会話はそれだけ交わしてルシアは足早に部屋を出て行き、ミカエルは彼女が座っていた卓を挟んで反対のソファに腰を落とす。卓上には並んで二つに分けられた幾冊かの本。向かって右に茜色が置かれている。重ねられた数も、そちらが多い。
 ルシアはトレイに温め薄めた葡萄酒と、丁寧に均等に切り分けられたチーズを載せて来、それらをミカエルの前に音を立てずに置いた。
「何時間寝てた?」
「四時間か、五時間か。六時間はたってませんわね」
 ゴブレットを掴み、葡萄酒を流し込む。いっとき間をおいて胃が燃える。
「俺、帰ってきた記憶がねぇんだけど」チーズをひとかけつまみ。
「よくおやすみでしたから」
「……お前が連れてきたのか?」
「そうですけど?」
「どうやってだよ」
「えーと、背負って」
 改めて問いたい。どうやって。普通差す背負うとは、やはり、あの、背負う……つまり、おんぶ。この小さな体が、標準からはやや小サイズながらも十分に体重があり、自らの背丈を大いに上回る男を、どうやって背負って歩いたのか。
 ルシアのこと、意味があろうとなかろうと嘘などつくまい。だとしたら、本当なのだ。
 少女に背負われて自身を想像する。片手で顔を覆う。
「どうしました?」ルシアは屈託もない。
「……いや、スゲーなお前」
「? ありがとうございます」
 どうして起きなかったのだろう。背負われたのだから、身を起こされたはずだ。歩いたのだから、ある程度衝撃はあったはずだ。
 深く深く眠っていた。他には考えられまい。
 首を傾いで、ミカエルの様子を見ていたルシアだったがソファに座って再び茜の本をめくり始めた。
 甘い葡萄酒をゆすぐように飲む。なんつーザマだァ、おい? あの女の膝で、固い座部に寝そべりながらも自室の寝台と同じくらい安心しきって眠ってしまった。いくらあの髪に、母体アダム・カダモン――セラフィタを 、感じたとはいえ。
 と、ひっかかる。
 他にもあった。深く眠れる理由が。
「………………………?」
 ルシア、に、関係あることだ。多分。いいことだったと思う。よく眠れたんだから。眠る前、なんでもするとルシアがいったから膝を借りて。もう少し前だ。

『私、ずっとあなたの傍にいたい』

 傍にいたい。
 そっか。
 膝を組んで腕も組む。宙に視線を彷徨わせ、舌で唇を湿す。普段あまり目をくれられることもない誰某という天使のミカエルに描いてよこした画が、壁でそんな主人を覘いていた。
 青い視線を左右にゆっくり動かしているルシアに、呼びかけた。
「ルシア」
「はい」
 顔を上げる彼女に笑いかけてやる。
「どっか行きたいトコあるか?」
「はい?」
「お前の行きてェトコ」
 ルシアは小首を傾げる。急には思いつかないのも仕方ない。彼女の既知にはごく限られた場所しかないのだから。しばし黙考して。
「――海。海に行ってみたいですね」
「連れてってやるよ」ミカエルは彼女の頭を乱暴にこねる。
「物質界好きか?」
                 

 余談だが、例の男はその後胃の重みに耐えかねて全てを暴露するという本人にとって最悪の結末を導く行動に走った。噂は口好き共の格好の肴となり、巡り廻って然るべき者たちの耳に入り、彼がどのような運命を辿ったのか。推するところで察していただきたい。
 しかしこれは、随分後の話。

 





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